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Think&Said to Myself

日々の日記と思いをミク●ィより赤裸々に(笑)綴りますw

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irony ~愛 違路に 第2章

やかんの麦茶から、缶のハイネケンに変わった。

別にこういうときにお酒が飲みたいわけじゃないが・・・それでも本当は今、ウイスキーが飲みたい。

そんな『気分』だ。



こんな時間だし、誰かに電話を掛けるわけにもいかない。
そもそも掛けることができたところで、誰にこんな話ができるというのだ。

(と考えて一瞬前教頭の顔が浮かんだ。・・・わかるけど、なんで・・・笑)


愛 違路に・・・なんて言葉遊び、どうして思いついたんだろう。あの時。
最初に同様のタイトルで記事を書いたのはもう5年も前だ。





少しはわかってくれているだろうなんて、甘かった。

他の人よりピンと来にくくても、当然そこはおぼろげながらでもわかってくれているはずだと。


甘かった。
甘かった。。


きっかけは1本の電話。


『今学校の先生てダンスをするの?』


例によって『もしもし』も何もない始まり方。冷静に考えればかなり滑稽。

前置きも何もないから質問の意味すらよくわからない。


紐解いて紐解いてようやく意図が見えてくる。
他の人と喋る、その2倍も3倍も疲れる。それも話明かしたって疲労感じゃない。



「体育でダンスが必修化したしねぇ。体育の先生はよく研修なんかで勉強してるけど」

『それはあんたもやるの?』



英語の教師がなぜ・・・笑


「は?なんで?」

『TVで見たけど、学校の先生がいっぱいやってるって』


いつ聞いてもボキャブラリが少ね・・・


「体育の先生以外でも趣味でダンスをしている人はたくさんいるからねぇ。そういう意味じゃないん?」


『義務ではないわけやね?』


「私はね・・」


『よかったぁ。あんたもせないかんのだったら困るもんな』


この何気ない一言を聞かなければ、私がその言葉に疑問を持たなければ、本当に心底、それこそ自分に嫌気がさすくらい、彼女に失望せずに済んだのに・・・






「困るってなんで?」

『だって、困るわよ』(説明になってない。小1か)

「だからなんで困るの?」

『あんたがダンスせなあかんようになったら』 (話が進まない)


「何も困らんよ。義務になればめんどくさいとは思うけど、もしなったら私もするよ」


『するんかよ』


(悪いんかよ)苦笑           

まぁ英語の教師が義務化なんてされないけどね、ダンス。

まぁ、常に小躍りしながら生きてるようなもんだしね私は・笑


『でも困るやんかよ。ダンスなんかできへんのに』(もう話を戻すなー)

「やれって言われたら、できる範囲で最大限やるよ。まったく踊れないわけじゃないし」


『・・・・・・・・・・・・??』


「ほかの人と同じようにできなあかんと思ってんの?」


『 ・・・・・・・・・・・・・・ 』


「いいんちゃうん、別に自分のできる範囲でやれば。」


『・・・・・・・・・・・・・??』


なんでこの理屈がわからんかなぁ。。。


この人の中には できるからやる  というのと、  できないからしない   しかないのかな。


できないなりに、でもやる。はないのかな。



幼いころから身体面で頑張っても褒められることなど滅多になかった。
周りの人から、『これってすごいですよお母さんも褒めてあげてください』とか言われて、言葉だけの感情の伴わない褒め言葉がようやく出る。そんな人。


褒めるのが下手だとか、厳しい人なんだとか、アスペルガーだからだとか、色々理由を付けて納得していたけれど・・・
どれも微妙に違う。


彼女の中には0か100かしかないのだ。


「なんで0か100かしかないん?50や70はあかんの?」


返事がないのは聞いていないか肯定かのどちらか。


情けなくなった。  

彼女の尺度で言えば、私が100できることは皆無だ。  


「私は昔から『みんなと同じことを一緒にしたい』とは思ってるけど『みんなと同じように』したいとは思ってないで」


無言。


「しようたって無理やもん。ブレイクダンスを踊れとか100mを10秒で走れなんて無理やもん。でもみんなと同じことをみんなと一緒にできる範囲でやる。  100mに40秒掛かっても、走る。途中で足を付きながらでも200m泳ぐ。そうしてきたやん。それと一緒やろ。ダンスせぇ言われたら、振り付けを何もかも一緒にするんは無理かもせんけど、手の振りだけまねしたり、自分にできる動きだけ真似てみたりすることはできる」


私の言うことがよく理解できないというような趣旨のことをもごもごと言われる。


信じられない。  私に100を求めていたの。 


それが私の生き方だった。
元々、スポーツは大好き。

「みんなと同じように動けない」のは当たり前のことだった。
だけれども、だからやらない、という選択肢はなかった。


かけっこはびり。でも走る。 そもそもほかの子より極端に遅いと言うだけで、「びり」自体は特別なことではないのだ。
私がいてもいなくても「びり」の子は出る。

むしろ、いつもびりの子の後ろにまだ私がいることでそのびりの子の劣等感は幾分和らぐかもしれない。


小さいころ、そこまで考えて走っていたわけではないけれど、でも「びり」とか「完璧にいかない」のが当たり前だから、そこに劣等感を感じたことはない。

「びり」で当たり前。


だってそれは仕方のないことだし、そこを疑問に思うわけが逆にわからない。


幅跳びも1m未満だって、ジャンプはできる。だからやる。


高跳びは、助走だけならできる。じゃぁそれだけでもしよう。


運動会のときにびりで走る私を、いつも涙を流しながら応援してくれる老人ホームのおばあちゃんがいた。

毎年走り終わったあとに『今年も会いに来たよう。よう頑張ったね。』


大の大人も涙を流すという光景に、なんか照れくささと言うか戸惑いみたいなものがあって当時は嬉しいような居心地がどうも悪いような、背中のむずむずする思いをしていたけれど、


でも自分の意義はそこだ、と幼心にわかっていた。


他の子のように1等賞をもらって褒めてもらうとか、幼い時からそんな次元ではないとわかっていた。


最大の努力をして、その成果を出すことで、見る誰かを勇気づける…なんて言うとオーバー過ぎておこがましいが、それで何かを感じとってくれる人はたくさんいた。


マラソン大会の時も絶対止まらんと途中で歩いたり走ったり繰り返しながらも、走り切ってたなって卒業する時に言ってくれたクラスメイトもいたし。


PSのダンレボ(これわかる世代、もう少ないだろうなー)が半ば社会現象になったころ、友達の家に入り浸ってはゆっくりした曲を選んで踊ったり、右足パートだけ担当してみたり。


だって、


楽しけりゃいいやん。


体育なんて、10段階で、たとえ定期テストで100を取ろうが(取ったことないけどな)絶対評価で3しか取ったことないし、
高校では進級のためのギリギリで2(5段階。1が1つでも付けば仮進級。要追試)やったけど。



能力があるのに半分も出していない人もたくさんいる。


100できへんけど、これは50で、それは40くらいやけど、でも一生懸命やるよ。
やったら楽しいよ、っていう。


できなくても一生懸命何かをしたあとの清々しさは、元からできる人の数百倍よく知っているつもりだ。



そんな私の生きざまを見て、何か感じ取るまでは彼女は難しくても、できへんのがわかっていて、それでもやれる範囲のことを一生懸命したいのだ、という私の価値観はわかってくれていると思っていた。


ところが、


『あんたがダンスなんかしたら、笑いものになれへんかな~』


はぁ

本人に言うか。
仮にも母親が言うか。


そりゃ、世の中人間の数だけ考えがあるから、笑うやつもいるだろうさ。

笑いたい奴は笑え。

人の一生懸命を笑うやつを、私は軽蔑する。かわいそうだな、と思う。
人の一生懸命を笑うやつは自分が一生懸命にできない人だから。


世界中が笑うわけじゃない。
いても一握りだ、     それの何を憂慮することがあろうか。


「なーなー聞いて。今日鉄棒で前まわりができたよ」
「マットで後転ができたよ」
「跳び箱で3段がとべたよ」

「伏し浮き(プールね)がこのくらいできたよ」


全部ふーーーんで終わったのは・・・そういうことだ。


『褒めてって先生が連絡帳に書いてあってん』という神経。



ひどく失望した。今まで以上に。

『うまくできないがチャレンジし続ける』 『うまくできなくても楽しむことはできる』


気づくとか気づかないとかじゃなくて、もう物ごころついてから生まれつきしみついていたかのような私の生きる価値観の根本。


親はわかっていると思っていたのに。


だから、何でも同じようにさせて、と学校にお願いを再三してくれたのだと思っていたら。


リハビリの先生にそう言われたからか。



私、小さいころ貴女に認められたくて色んなことをしたけれど、あなたにとっては何一つ価値のないことなのかなぁ。


虚しいよ。それが私のすべてなのに。



特に障がい児の親は一般の100を求めてはいけない。その子の中で100ならば一般の70だろうがいいのだ。

子どもも親も100を求めるとしんどくなる。


健常児の親だって一緒だ。

完璧な子どもなんていない。  むちゃくちゃ努力しても50点しか取れない子もいるし、鉄棒ができない子だっているのだ。


頑張った「結果」ではなく、頑張った「努力」を認めてやらねば、いい成長はしない。


「あんたってさぁ、子どもの心を潰すよね」


私は今潰されたわ。


前向きとか頑張り屋とかっていうのを軸に据えて生きてきたのに、裏切られた気分。かなしい。


なんかもっと的確な言い方あるんだろうけど、うまいことよう書かんかった。



ひどく自分を否定された気がするのだけは確か。


でも母本人は、自分の何がそんなにもショックを与えたのかわかっていない。



言い方悪いけど、馬鹿は死ぬまで馬鹿なのかなぁ。



極めつけは『ダンスを必修化する国は狂ってる』  


何でそんなにダンスを敵視するんだろう。 まぁ彼女リズム感とか皆無だけどw


思想は自由だから思うのは勝手だけど、自分の価値観に合わないとすべて「狂ってる」で片づけるのはねぇ良くない。今度は自分が「おかしい」と言われてしまうよ。


と言おうとしたが、途中で切られた。


言いたいことだけ言って、人の話は聞かない。

それも母の特性だからと一応我慢するけれど、自分の生き方をわかっていないのはおろか、人のことを「笑いもの」というような人になぜ理性的にならねばならないのだろう?


自分の気持ちが踏みにじられることがたくさんあっても、それを棚に上げたまま、根気よく諭す必要がある?


私は彼女の「先生」ではないんだし。


文句を言っても、なんでそういう文句が出るのか理解するのに時間が掛かる人だし。


生き方のうち、わかってもらえないことが多々あるのは知っていた。

恋愛とか、仕事とか、 娯楽とか、お金の使い道とか。


でもこれは私の生き方すべてに関わる根っこだから、ここを理解してもらえないと親密になれない。親でも。


もういやだ。
何で親だと言うだけで一番大事なことがわからない人と関わらなくてはならないの。


付き合いが浅くても、私とある程度話す人ならみんなわかっていることなのに。





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