Think&Said to Myself
日々の日記と思いをミク●ィより赤裸々に(笑)綴りますw
マイナスからの出発
- 2010/02/28 (Sun)
- ☆日記★-日常全般-☆ |
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以前からカウンセリングを受けたいと思っていたが、ようやくその思いが叶った。
隣の市にあるカウンセリングセンター。個人病院の心療内科に属するもので、別に心療内科で診察を受けなくてもカウンセリングだけでも可。しかも料金は1回2000円と格安
保険の効かないカウンセリングでこの値段は破格だw
はじめ、私の母校の大学の心理学科が開設しているカウンセリングルームに行こうかと考えた。
料金も大学付属の施設なら良心的だし。
しかし、今の自宅からは遠いし、カウンセリングをしている臨床心理士が、大学時代、般教でお世話になった教授だった・・。。気まずいので、却下
苦笑
教師になるまでは、いい先生になれるという自信があった。
自分こそ教師にならずして何になるんだと思っていたし、生徒に好かれる教師になるという確信もあった。
それは塾講時代に培った経験からの自信だったのだろう。
ほとんどの生徒が「先生、先生」と慕ってくれたし、「講習はめぐさん先生ではないと嫌」と言ってくれる子もいた。周りのスタッフともうまくやっていけていたと思う。
でも。
そんな自信をなかったものにされるのは、いとも簡単だった。
仕事量の多さ。目が回るような慌しさ。子供同士のトラブルの処理。
余裕がなくなれば、色んなことが見えなくなる。
洞察力は鋭い方だった。些細な変化も見極める自信もあったし、察知できていたことも多かった。
しかし一気に自分が見なければならない生徒が増え、その洞察力はどこへやら・・・。それでも社会人になってからしばらくはピンと糸のように張り詰めていた緊張感のおかげで、その洞察力を少しは維持できていたけれど、最近はまるで・・・。
ガラスが割れるほどのイタズラが起こっていながら、私自身割れるまで気が付いていなかったり。
昔は、些細などうでもいいつまらない事まで細かく覚えていたのに、生徒との約束を忘れてしまう。
生徒の声をうまく聞き取れない。。
こっちの余裕のなさを知ってか知らずか、子どもたちは大人のミスを許してはくれない。
以前、一足先に小学校教諭になった友だちが『子どもらって、教師をスーパーマンか何かに思ってる。頼んだことはその日中に出来てて当然とか思ってるもん。こっちだって色々仕事あるし、忙しいのに』
その意味が今、ようやく理解できた。
小学生の場合は『先生はなんでもできる』と思っていることに起因し、私ら中学生の場合は『教師はそれくらいの仕事をして当然』と思っていることに起因するんだろう。
先輩の先生は『何年経っても、無力感に苛まれるのは一緒。教師は神様じゃない』と言う。
本当に、スーパーマンでも神様でもない。凡人だ、教師って。。本当にただの、人。
自分が自信を持っていた事がいとも簡単にできなくなっていく。
否、元々出来なかったのかもしれない、この現場では。
でも、出来ないということが自分自身に対する自信をそぎ落としていくのは容易かった。
至らぬ部分を指摘され、叱られる。 新人ではよくあることだと思う。
一度は先輩の間違いを私のものとして叱られたこともある。でも、そこで「それは私ではない」と言う事は美徳ではないし、後で却って見苦しいだけだと思い、私の間違いにしておいた。別にそれで私の評価が下がるわけでもないし、取るに足らないような注意で済んだのでよかったのだが。
自分のすることすべて、裏目裏目に出てしまい、結果がギクシャクする。
そのたびに注意を受ける。
そういうことが度重なれば、何かをする度『ミスらないように、叱られないように』が先立ってしまい、萎縮する。
自分の判断さえ、信用できない。
何を基準に判断していいのかわからない。自分の判断はすべて間違っているかもしれないのだ。
軽くパニくっていた。ここ数ヶ月。
自分が今何をしているのかさえわからなくなりそうな日も1日や2日ではなかった。
もっとしっかりしていたはずだった自分。他者からも「しっかりした人」という評価を与えられることが多かった自分。
それが今や、職場で一番頼りのない人間になっている、歯車どころか荷物になっている現実。。
その事実を客観視したら、耐えられない。
さらに、ここだけの話だがひそかに同期がストレスであったりもする。
別に悪い人ではない。よく気遣ってくれるし、いい人なのだが、自分でもよくわからない。見ていると息が詰まるのだ。
今、その同期が体調不良でしばらく休みを取っているが、もうすぐまた復帰する。
その時私は大丈夫なのかと思う。
協調性があると思っていた自分が、管理職には「協調性がない」とバッサリ。でも何でも突っ走る・・・はみ出すという意味ではなく、何でもかんでも問題を抱え込むことを意味しているらしい。
周囲の人間に頼らなければ円滑に進まない職業なのに、私はどうしても手を伸ばせない・・のだ。
先輩の先生に言われた一言が刺さる。
『うちら、そんなに頼りないかな??』
そんなわけじゃない。すべて私の中の問題。先生が頼りないんじゃない。ぜんぶ私が悪い。
でもそれを言っても理解されなさそうなので、「そんな事ないです」しか言えなかった。
全部ひとりでしなければという心理が、心の奥深くに根付いていて、それが足かせになっている。
人の手を借りることは迷惑で図々しいことだというのも深層心理のどこかにある。
でも同時に頭では、人は迷惑掛けて掛けられてナンボや、とか、頼ってもいいと言う事を理解してもいるのだ。
でも出来ない。
私だって苦しんでるんだ。もがいているんだ。でもどうにもできない。
でもこんな私のままじゃ、いい教師になれないと皆が言う。現に子どもの評価も私が最悪の教師であることを物語っている。
他のクラスの子どもたちの中には『来年は先生が担任がいい』と言ってくれる子もいるにはいる。
かつて教育実習の事前指導でお世話になった教授は『9割の生徒に嫌われたからと言って、その教師が悪い教師だとは言い切れない。』と言っていた。
その意味も、輪郭では理解できるが、本当にしっくり意味を成して自分に落ちてこない。。
私だって、しんどいときは頼りたいよ。
でもその方法がわからへんねん。
甘えられたら、気持ちも楽だとは思うよ。
でも甘えるってどうやったらええのん。
わからない・・・
わからない。。。
人間として間違ってるんかな・・・
頼っていい、甘えることも大切。頭では、理屈では理解しているけれど、そうすることを阻む何かが、深層心理の中にある。
いくら心理学に興味があって、般教で取れる心理学はすべて受講したとは言え、その知識は所詮、一般教養レベル。そういう自分の状態を客観視できても、そこからどうすればそれを改善できるのかはわからない。
そんな自分でもほじくり出せない心の奥深くにある問題をどうこうするには、やっぱプロの手を借りるしかないでしょう。
それが私が達した結論だった。
やっぱり今の私の人格形成の元になっているのは幼少期だから、その頃生じた何らかの問題を、理解して納得させて行かねばならない。
やっぱ生育歴に何かあるんだろうな~。
初回の今日は、特に込み入った話もしなかった。初回なので心理士の方の自己紹介やら、私がカウンセリングを受けるに至った経緯・・くらいで1回の時間は終わった。
心理士の方は、おそらく仕事用なのだろうが、グレイのナイロールフレームのメガネがよく似合う、いかにも臨床心理士!という感じの女性。年齢はアラサーという感じ。大学院を出てすぐのひよっこっというようには見えないので若く見えるが30前後だろう。
偶然にもウチの学年主任と同じ姓だった。 大阪市内の中学校でスクールカウンセラーとしての仕事もしており、中学校現場にも詳しいので、心強い。
初回のカウンセリング予約のとき、名前と連絡先の電話番号しか伝えていないにも関わらず、担当になった心理士が偶然にも自分の仕事にも繋がるものがあって驚いた。
『中学校の先生は大変ですよねー。何もなくたって病気になっちゃいますよ・笑』とあっけらかんと言う。
こういうサバサバした人は好きだ。
実際、私もカウンセリングを受けようと本当に決心したきっかけが、共済組合から届く会報誌の『うつのセルフチェック』というページを何気なく見ていたら、9割の項目にチェックがついたではないか
このまま本当に欝になってたまるか!というわけなのである。。
体の病気なら、病休を取った後も医師の許可さえ出れば職場復帰は容易だが、心の病気は審査も厳しいと聞く。しかも、休暇の間、給料の何パーセントかが保証されるのは最初の数ヶ月だけで、それを越えて休むとなれば生活の心配もしなければならない。
逃げ出したい。休めるものなら休みたい。毎日そう思うけれど、ここで倒れても自分にとっていい結果には絶対ならない。
心理士の方には、カナリこれからがしんどくなるだろう、と言われた。でもそれも覚悟はしていた。
『癒し』とは、本当は優しいものではない。むしろ厳しいものだ。
心が癒されるには、自分の傷を知り、認めなければならないから。
普段、あえて見ないようにしている傷を白日の下に曝すわけだから、しんどくないはずはない。
でもその時、独りなら不安だが、臨床心理士っていう心のプロがいる。
しんどくても何とかなるし、逆にそれを超えられないと、本当に自分は過去から解放されない。
今、自分を追い詰めているもうひとつの要因は、自分の味方や帰る場所がないと思うことだ。
職場では何もできない迷惑な自分だし、生徒も今私を必要としてはいない子がほとんどだ。
自分の存在価値を他者からの評価でしか認識できない。
どんなときも最後の最後まで自分が自分の味方で居てあげな。
生徒とかにはよくそう言うのだが、そういっている自分が一番そうできていない。お笑い種である。
自分の価値を他者からの評価でしか認識できないから、その評価基準である他者に一斉に非難された時、自分の価値を自分で認識できない。
誰がなんと言おうが、個人個人絶対によさはあって、それは決して容易く壊れるものではないというのに。
たとえ周りがすべて敵になっても自分を信じられる強さ。最低限の自尊心。それを身に付けたい。
それより身近に、こんな頼りない自分でも、何かしらいいところを見ていてくれる、認めてくれる人がいればいいのだけれど・・・それもなかなか難しい。。
心のサビをそぎ落とせる日はまだ近くないだろうが、でも溺れそうな中で藁を見つけた気がする。
隣の市にあるカウンセリングセンター。個人病院の心療内科に属するもので、別に心療内科で診察を受けなくてもカウンセリングだけでも可。しかも料金は1回2000円と格安

はじめ、私の母校の大学の心理学科が開設しているカウンセリングルームに行こうかと考えた。
料金も大学付属の施設なら良心的だし。
しかし、今の自宅からは遠いし、カウンセリングをしている臨床心理士が、大学時代、般教でお世話になった教授だった・・。。気まずいので、却下

教師になるまでは、いい先生になれるという自信があった。
自分こそ教師にならずして何になるんだと思っていたし、生徒に好かれる教師になるという確信もあった。
それは塾講時代に培った経験からの自信だったのだろう。
ほとんどの生徒が「先生、先生」と慕ってくれたし、「講習はめぐさん先生ではないと嫌」と言ってくれる子もいた。周りのスタッフともうまくやっていけていたと思う。
でも。
そんな自信をなかったものにされるのは、いとも簡単だった。
仕事量の多さ。目が回るような慌しさ。子供同士のトラブルの処理。
余裕がなくなれば、色んなことが見えなくなる。
洞察力は鋭い方だった。些細な変化も見極める自信もあったし、察知できていたことも多かった。
しかし一気に自分が見なければならない生徒が増え、その洞察力はどこへやら・・・。それでも社会人になってからしばらくはピンと糸のように張り詰めていた緊張感のおかげで、その洞察力を少しは維持できていたけれど、最近はまるで・・・。
ガラスが割れるほどのイタズラが起こっていながら、私自身割れるまで気が付いていなかったり。
昔は、些細などうでもいいつまらない事まで細かく覚えていたのに、生徒との約束を忘れてしまう。
生徒の声をうまく聞き取れない。。
こっちの余裕のなさを知ってか知らずか、子どもたちは大人のミスを許してはくれない。
以前、一足先に小学校教諭になった友だちが『子どもらって、教師をスーパーマンか何かに思ってる。頼んだことはその日中に出来てて当然とか思ってるもん。こっちだって色々仕事あるし、忙しいのに』
その意味が今、ようやく理解できた。
小学生の場合は『先生はなんでもできる』と思っていることに起因し、私ら中学生の場合は『教師はそれくらいの仕事をして当然』と思っていることに起因するんだろう。
先輩の先生は『何年経っても、無力感に苛まれるのは一緒。教師は神様じゃない』と言う。
本当に、スーパーマンでも神様でもない。凡人だ、教師って。。本当にただの、人。
自分が自信を持っていた事がいとも簡単にできなくなっていく。
否、元々出来なかったのかもしれない、この現場では。
でも、出来ないということが自分自身に対する自信をそぎ落としていくのは容易かった。
至らぬ部分を指摘され、叱られる。 新人ではよくあることだと思う。
一度は先輩の間違いを私のものとして叱られたこともある。でも、そこで「それは私ではない」と言う事は美徳ではないし、後で却って見苦しいだけだと思い、私の間違いにしておいた。別にそれで私の評価が下がるわけでもないし、取るに足らないような注意で済んだのでよかったのだが。
自分のすることすべて、裏目裏目に出てしまい、結果がギクシャクする。
そのたびに注意を受ける。
そういうことが度重なれば、何かをする度『ミスらないように、叱られないように』が先立ってしまい、萎縮する。
自分の判断さえ、信用できない。
何を基準に判断していいのかわからない。自分の判断はすべて間違っているかもしれないのだ。
軽くパニくっていた。ここ数ヶ月。
自分が今何をしているのかさえわからなくなりそうな日も1日や2日ではなかった。
もっとしっかりしていたはずだった自分。他者からも「しっかりした人」という評価を与えられることが多かった自分。
それが今や、職場で一番頼りのない人間になっている、歯車どころか荷物になっている現実。。
その事実を客観視したら、耐えられない。
さらに、ここだけの話だがひそかに同期がストレスであったりもする。
別に悪い人ではない。よく気遣ってくれるし、いい人なのだが、自分でもよくわからない。見ていると息が詰まるのだ。
今、その同期が体調不良でしばらく休みを取っているが、もうすぐまた復帰する。
その時私は大丈夫なのかと思う。
協調性があると思っていた自分が、管理職には「協調性がない」とバッサリ。でも何でも突っ走る・・・はみ出すという意味ではなく、何でもかんでも問題を抱え込むことを意味しているらしい。
周囲の人間に頼らなければ円滑に進まない職業なのに、私はどうしても手を伸ばせない・・のだ。
先輩の先生に言われた一言が刺さる。
『うちら、そんなに頼りないかな??』
そんなわけじゃない。すべて私の中の問題。先生が頼りないんじゃない。ぜんぶ私が悪い。
でもそれを言っても理解されなさそうなので、「そんな事ないです」しか言えなかった。
全部ひとりでしなければという心理が、心の奥深くに根付いていて、それが足かせになっている。
人の手を借りることは迷惑で図々しいことだというのも深層心理のどこかにある。
でも同時に頭では、人は迷惑掛けて掛けられてナンボや、とか、頼ってもいいと言う事を理解してもいるのだ。
でも出来ない。
私だって苦しんでるんだ。もがいているんだ。でもどうにもできない。
でもこんな私のままじゃ、いい教師になれないと皆が言う。現に子どもの評価も私が最悪の教師であることを物語っている。
他のクラスの子どもたちの中には『来年は先生が担任がいい』と言ってくれる子もいるにはいる。
かつて教育実習の事前指導でお世話になった教授は『9割の生徒に嫌われたからと言って、その教師が悪い教師だとは言い切れない。』と言っていた。
その意味も、輪郭では理解できるが、本当にしっくり意味を成して自分に落ちてこない。。
私だって、しんどいときは頼りたいよ。
でもその方法がわからへんねん。
甘えられたら、気持ちも楽だとは思うよ。
でも甘えるってどうやったらええのん。
わからない・・・
わからない。。。
人間として間違ってるんかな・・・
頼っていい、甘えることも大切。頭では、理屈では理解しているけれど、そうすることを阻む何かが、深層心理の中にある。
いくら心理学に興味があって、般教で取れる心理学はすべて受講したとは言え、その知識は所詮、一般教養レベル。そういう自分の状態を客観視できても、そこからどうすればそれを改善できるのかはわからない。
そんな自分でもほじくり出せない心の奥深くにある問題をどうこうするには、やっぱプロの手を借りるしかないでしょう。
それが私が達した結論だった。
やっぱり今の私の人格形成の元になっているのは幼少期だから、その頃生じた何らかの問題を、理解して納得させて行かねばならない。
やっぱ生育歴に何かあるんだろうな~。
初回の今日は、特に込み入った話もしなかった。初回なので心理士の方の自己紹介やら、私がカウンセリングを受けるに至った経緯・・くらいで1回の時間は終わった。
心理士の方は、おそらく仕事用なのだろうが、グレイのナイロールフレームのメガネがよく似合う、いかにも臨床心理士!という感じの女性。年齢はアラサーという感じ。大学院を出てすぐのひよっこっというようには見えないので若く見えるが30前後だろう。
偶然にもウチの学年主任と同じ姓だった。 大阪市内の中学校でスクールカウンセラーとしての仕事もしており、中学校現場にも詳しいので、心強い。
初回のカウンセリング予約のとき、名前と連絡先の電話番号しか伝えていないにも関わらず、担当になった心理士が偶然にも自分の仕事にも繋がるものがあって驚いた。
『中学校の先生は大変ですよねー。何もなくたって病気になっちゃいますよ・笑』とあっけらかんと言う。
こういうサバサバした人は好きだ。
実際、私もカウンセリングを受けようと本当に決心したきっかけが、共済組合から届く会報誌の『うつのセルフチェック』というページを何気なく見ていたら、9割の項目にチェックがついたではないか

このまま本当に欝になってたまるか!というわけなのである。。
体の病気なら、病休を取った後も医師の許可さえ出れば職場復帰は容易だが、心の病気は審査も厳しいと聞く。しかも、休暇の間、給料の何パーセントかが保証されるのは最初の数ヶ月だけで、それを越えて休むとなれば生活の心配もしなければならない。
逃げ出したい。休めるものなら休みたい。毎日そう思うけれど、ここで倒れても自分にとっていい結果には絶対ならない。
心理士の方には、カナリこれからがしんどくなるだろう、と言われた。でもそれも覚悟はしていた。
『癒し』とは、本当は優しいものではない。むしろ厳しいものだ。
心が癒されるには、自分の傷を知り、認めなければならないから。
普段、あえて見ないようにしている傷を白日の下に曝すわけだから、しんどくないはずはない。
でもその時、独りなら不安だが、臨床心理士っていう心のプロがいる。
しんどくても何とかなるし、逆にそれを超えられないと、本当に自分は過去から解放されない。
今、自分を追い詰めているもうひとつの要因は、自分の味方や帰る場所がないと思うことだ。
職場では何もできない迷惑な自分だし、生徒も今私を必要としてはいない子がほとんどだ。
自分の存在価値を他者からの評価でしか認識できない。
どんなときも最後の最後まで自分が自分の味方で居てあげな。
生徒とかにはよくそう言うのだが、そういっている自分が一番そうできていない。お笑い種である。
自分の価値を他者からの評価でしか認識できないから、その評価基準である他者に一斉に非難された時、自分の価値を自分で認識できない。
誰がなんと言おうが、個人個人絶対によさはあって、それは決して容易く壊れるものではないというのに。
たとえ周りがすべて敵になっても自分を信じられる強さ。最低限の自尊心。それを身に付けたい。
それより身近に、こんな頼りない自分でも、何かしらいいところを見ていてくれる、認めてくれる人がいればいいのだけれど・・・それもなかなか難しい。。
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自己紹介:
CPと闘いながら、やさぐれた社会人やってますw
詩を創るのが趣味。でも最近は忙しくてなかなか創作できません。
夕暮れの空が大好きですww
良い空があれば撮り貯めてますが、キレイに撮れないのがなやみ;
このブログでは日常や好きな音楽、本のレビューを綴ります☆徒然なる独り言にお付き合い下さい♪
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