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Think&Said to Myself

日々の日記と思いをミク●ィより赤裸々に(笑)綴りますw

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父の苦悩

「お前は神さんのくじを引いた子ぉや」

「お前は神さんに選ばれた子なんや」


よく父が言ったことば。    神様のくじ・・・なんてその顔で似合わない~というツッコミはさておいて、私は何度もこのことばに救われてきた。きっと父自身、自分にこう言い聞かせていたんだと思う。

めぐさんの出生時の体重は、1200グラム。新生児の体重がだいたい3000グラムやから約半分。

4月のうららかな時に生まれてくるはずやった私は、せっかちやったんか1月の寒い時期に生まれてきてしまった。7ヶ月の早産である。

現在の医療技術なら1200グラムも体重があれば、何の後遺症もなくすくすくと育てるようになった。

が、20年ほど前の医療は違う。しかも母は38歳で初産だった。これも今ならよくあること。有名な女子プロレスラー(ドMな旦那の・笑)だって45歳で出産してるくらいやし。しかし、これも当時は稀。。


1月のある寒い夜、母が破水した。破水は本来出産前にはごく自然にある現象である。が、7ヶ月。まだ早い。

胎児は子宮内の羊水がなければ生きられない。

産まなければ胎児の命に関わるということで、即出産となった。


生まれてきた赤ん坊は産声もあげない。仮死状態だった。


出産後、当時地元では最先端のNICU(新生児集中治療室)を完備していた病院に搬送された。


そこで両親は担当医にこう告げられる。

「知的にか身体にかはわかりませんが、何らかの障がいは必ず出ると思っておいて下さい」

新婚の夫婦が直面した初めての大きな問題。


生まれてきた赤ん坊は即保育器に入れられたが、よく自発呼吸がとまった。これを看護師が見落としていた。加えて、保育器の酸素濃度が薄かったらしい。

脳は非常に多くの酸素を必要とする。   酸素が脳にいかないと、脳神経は再生不能のダメージを受けるか死滅する。

その後、気付いた看護師が濃度を上げたが、遅かった。。今度は濃度を上げすぎて(?)未熟児網膜症という目の病気になり、生後すぐレーザー手術。

当然手術室には医師以外立ち入れないので、「わーわー泣き喚くあんたを見送るときが一番辛かった」と後に親は話す。

この目の病気、かの有名な歌手、スティーヴィーワンダーもこれで光を失っている。

が、神様はそこまで私を見捨てなかった。近視と乱視が残った程度で済み、裸眼視力は0.8.昔は遠視も混じっていたがこれは数年前になくなった。これでめでたくコンタクトができるようになったものの、先端恐怖症でいまだチャレンジできていない。なんでみんな、あんなもん目に入れられるんワラ

育つに連れ、ゲームやら何やらで多少落ちたものの、ほぼ問題ない視力だ。めがねやコンタクトがあれば完璧である。


保育器の濃度低下を私より3日遅く放置された子は、ずっと寝たきりである。自分では身の回りのことが何もできない。大きくなるにつれ、体も成長するのでお母さんが抱っこをしたりしてあちこちに連れて行ったりすることが困難になり、数年前施設に預けられたと聞いた。

なんかやりきれない。他に家族が一緒に住む道を模索できなかったのか。


ずっと生まれつきだと聞かされてきた私。。
ことあるごとに病名の前に「後天性」と付けられるのが気になり、聞いてみた。
保育器の話を聞かされた。私は小4だった。

お医者さんがもっと早く気付いていれば、そもそも濃度を間違えなければ、私も早く走ったり、高飛びをしたり、鬼ごっこでいつも鬼にならなかったりできてたのか。(小4の思考、高飛びや鬼ごっこってところがかわいい笑)

愕然とした。

その日はお風呂で隠れて泣いた。  そういうとき、やさしく包み込んでくれるような絵に描いたような親ではなかったし、繊細さを求めること自体間違いだ・笑  基本母は、仕草も精神もがさつである。


今、考えると保育器だけの問題ではないし、そのときその病院にNICUがなければ、今私はこの世にいない。
誰のせいでこうなったというわけではないし、誰も責められないということが判る年齢になったが、これを悟るまでは辛かった。それに私は「そこで生き延びるくらいなら死んでいたほうがマシ」なんていうひどい人生も歩んでいない。確かに他人が想像もしないような事で苦労しなければならないこともあったかも知れないが、五体満足な人も、私が抱えていなくて想像もしないような苦労があるものやし。

程度の差はあれ、人間に悩みはつき物で、言ってしまえば死ぬまで悩みを抱えて生きるのだ。誰だって。


まぁそんなこんなで、母は私が幼児期、半ば育児ノイローゼ気味であんまり良い思い出はない。このことも追い追い書くけど☆
それに比べ父は常にこの事を肯定的に捉えていた。そこから出てきたのが「神様のくじ」発言じゃないかと思う。


だが、そんな父にも苦悩はあった。

私はそれを21年知らずにのうのうと生きてきた。。

今年5月、久しぶりの法事のあと、親戚一同が本家で集まったとき。元々酒好きの父はだーいぶ良い感じにほろ酔っていて、私も瓶ビールを1本(爆。これはきっと父方の血だと断言できる。私もお酒は好きだ)あけていて、
ほろよっていたのだが、その酔いも一気にさめた。

ちょうどキッチンで次に出す料理を受け取っていた私は、それを座敷に持って行こうとして、ふと座敷の前で足をとめた。さっきまでの娘の大学自慢やら「塾でバイトもしよんねぞ~」なんて普段は絶対褒めない父の陽気な姿とはまるで違った。

「わい、今でも思うんやけどよ、看護婦さん『めぐちゃん息するの忘れるんですよぅ』て言うけどやで?忘れるで済むかぁ!!ちゅう話よら。そんなもんモニターでなんぼでも管理できるんやしやで??それをきちっとすんのがお前らの仕事ちゃうんか。あいつらがきちんとしてたら、めぐみはこうなってなかったかもわからん・・・て今でも思うよ」

しばらく座敷に入れなかった。つーか今思い出しても泣ける。。。

そういう思いをぶつけたのはおそらく初めてだろう。見た目は癒し系な父やけど、中身は恐ろしく強い。

そういう思いを独りでずっと抱えさせてきたことを申し訳なく思った。父はそんなこと微塵も表には出さずに接してくれていた。

でも子どもは案外、父が気に病むほど悲壮な人生を生きてきていないものである。
この障がいを否定的に捉えたのは人生でただ一度。それももう今は乗り越えている。
むしろ、これも含めて私である。もはやアイデンティティの一部。だって、これがなかったら、判らなかったこと。培えなかったものがあるのだ。

もし今、何でも治せる神のような医師が現れて「何でもひとつ願いをかなえてあげる」といわれたなら、私は

「完治させて下さい」とはきっと言わない。強いて言うなら「これ以上悪化させないで下さい」だろうか。

案外他の人も同じ考えのようだ。
あ、でも1日くらいなら、味わってみたいかもなぁ階段3段飛ばしで昇り降りしたり(逆に変人だって)とか、10cmのヒール履いて闊歩したりとか、シャトルラン(持久走の一種)の自己新更新してみるとか、そういう取るに足らない事してみたい・笑  っていうか私が10cmのヒールはいたら174cmになっちゃうやん・・・巨塔・・・別の意味で無理やな、こりゃ・笑 (めぐさん164cm)

こういうくだらないことしか出てこないから、全国のCPの子のお父さん、お母さん、自分を責めなくていいですよ




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