Think&Said to Myself
日々の日記と思いをミク●ィより赤裸々に(笑)綴りますw
JOB HUNTING-モラトリアムからの脱却あーんど自分を振り返る-
教職ガイダンスに就活ガイダンス、行ってきた
就活、しゅうかつ、シュウカツ。。就活(しつこい) たった2文字になんでこんな圧迫されるんやろ。。
周りがどんどん道を選び取っていく。私も意志は決まっている。でも・・・実現しない事がこわい。。・・・いや、正確に言えば、最大限頑張れなかったときの自分がこわい。
友達は「就活を楽しむ」と言った。 そのセリフが言える彼女の姿勢を少し見習わねばと思った。
別の友達は就活せず院試を受けると宣言した。少し羨ましい。
本音を言うと、来年7月の教採に向け、コレ1本で行きたいところ。でも、教職浪人のリスクを考えれば就活せざるを得ない。
せめて親が大阪に住んでいれば、塾のバイトや、大阪府の講師登録をして非常勤でいくつかの学校で働くという手もあるねんけど、そうもいかない。自分の住処の家賃、生活費、奨学金の返済、車のローン(予定)を考えると本採用がいちばんいいんやけど。
教採にも身障者枠があるので、それを狙おうと思う。その方が配属先の学校なども配慮してくれるようだ。
ただ、一般企業の場合は職種が事務に限られていたり、初任給も微妙に差があったりで格差を感じる。
ネックは数学。何せ高校時代に3点という何とも情けない点数を取ってしまったのだ。もうXもyも見たいとすら思わない・苦笑
中学の頃に担任から「めぐは国語の成績がいいから国語の教師になったらどうや」と言われて、「ぜったい嫌!死んでもなりたくない!(先生に失礼)なんて言ってたのに、気持ちとは変化するものだ。ぜったいなりたくなかった教師に、今は是が非でもなりたいと思ってるんやから。
中学の頃は何故か英語の成績は普通で(いつもどんなに点を取っても絶対評価で4やった)、歴史や公民が5というある種キモい成績を取っていた。その頃は社会の方がすきやったし。今はもう半分も覚えてないけど。
教師になれても、考えていかなければならない事はたくさんある。
まず板書をどうするか。 少し前までは1時間くらい立ちっぱなしでも全然平気やったのに最近めっきり衰えてしまった。パワーポイントを使うって手もあるけど、板書が大事な中学生にパワーポイントで授業をしていいのか、疑問やし。まぁこれは教育実習に行ったときに現場の先生に聞いてみよう。
今までは「学ぶ」立場やったから、色々配慮もして頂いた。進学する時にはトイレの一部を洋式便器にしたり怪談に手すりをつけてくれたり。それがあったから今まで学校に来れた。
大学は元からほとんど洋式トイレやし、エレベーターもついてるけど、入学時にはなかった手すりが増えているのを見るとやっぱ有難い。
でも「働く」立場になれば、どうか。
母に言われた言葉が今も突き刺さっている。
「いくらいい大学出たって、就職できな意味ないんよ。学歴なくてもよう動く体があれば、こき使ってもくれるけど、あんたなんてこき使える体でもないやないの」
母のこういうところが嫌い。こういうセリフを私を前にして吐ける神経もわからへん。確かに事実だ。学歴などなくても身を粉にして働ける職はたくさんある。そんなこと、私が一番よくわかっている。
大学に行く時も、最後まで反対し、こう言った。
「あんたみたいなひょろひょろの足で都会へ出て何ができるの?」と。
こう見えて結構傷つくねんけどな。わかんないかな、母。。実際あんたよりはたくましく生きてるし・笑
別に大学に入ったのだって、学歴がほしいからじゃない。英語がもっとやりたかったから。教師になりたかったから。
この大学を選んだのだって、偏差値が高いからじゃない。ネームバリューがあるからでもない。校風とか中身に魅力を感じたからだ。
それやのに周りの人から、大学の名前を言う度に「よくできるのねぇ」なんて言われると、なんか嫌気が差した。
「国公立と同志社以外は大学じゃない」なんて言っていた親戚が、今の大学に入った途端、ころっと態度を変えた。人間って、なんや。学歴ってなんなんや。自分が何を得たか、が大事なんちゃうんか。
ちなみにその親戚の子は、関西最高峰の大学に合格した。なんか「勝ち組」オーラをその辺から飛ばしまくるのやめてほしい。本人はそんなに楽しくないみたいやけど。。それ見てるとかわいそう。親だけが満足して、行ってる本人が充実してないって不本意。。やっぱ4年も通うとこ、人間や雰囲気も合わなければ疲れてしまう。
何故かウチの大学は「居心地いい」っていう友達が多い。私もめっちゃ居心地がいい。環境の変化が苦手やから、入りたてのころはだいぶしんどかったけど。授業なくても散歩しにふらっと学校に出かけるなんて入学前は考えもしなかったし。でも今ここで得たもんはおっきいと思う
学校が楽しいと思えるようになったのは大学に入ってからやし
でもいつまでもモラトリアムではいられへん。時間にも自由にも恵まれた時期には限りがある。
私は、たとえ獣道だって切り開いていってやる!!!!!!!
私が院へ進学したいことを唯一知っている叔母は、院試も受けて就活もして且つ、教採も受けなさい・・・なんていうけれど、そんなトリプルなんて・・・・。。叔母も自分で何もかも切り開いてきた人だ。東京の某大学の受験の受験料、会場への交通費、それらを新聞配達のバイト代でまかない、おばあちゃんは合格通知を受け取るまで受けたことすら知らんかったらしい。
授業料も給付の奨学金で一部をまかなったらしいし、仕送りも母に送られていたのよりはずっと少なかったようだ。ちなみに母は、大学の学費もおばあちゃんがすべて出していた。
そんなだからか、叔母の理想は高い。他人にある程度厳しいのはいいことやけど、最近思う。
すべての人にその厳しさを押し付けてはいけない、と。厳しさを万人に求めてはいけないのだ。他人は皆自分とは違い、別のペースを持っている。私も病気になるまで気が付かなかった。
病気になる前の私は、成績もそんなに悪くはなかったし、勉強ができるのが人生にとっていい、という考えやった。いじめに遭っても、休む事無く登校した。不登校のニュースなんかを見ると「甘えてる。我慢がたりない」と斬り捨てるような人間やった。プライドも高かった。勉強できひん子が、それに危機感を感じていないことも「アホや」とすら思っていた。
高校に入ってすぐ、気持ちに体がついていかなくなった。別に学校に問題があるわけではない。行きたいのに体が言うことを利かない。
医者から下された診断は、自律神経失調症。幼児期からのストレスの積み重なりでしょう、らしい。でも今から思えば欝もあったと思う。毎日自分はなんで生きてるんやろ・・・とか、死んでしまった方がいい、とか思っていた。あのときの病み様は今の「プチ鬱」の比じゃない。
毎日毎日夜の暗闇が怖くて(体の不調が出る)、眠れず朝方寝ては昼過ぎに起きるという生活をして、調子のいいときに学校に行っては、進んだ勉強に唖然とし、さらに病む、の繰り返しやった。その頃の担任には迷惑をかけた。毎日欠席日数を数える・・・なんて胃が痛くなりそうやし・笑
そのとき周囲からは「甘え」だと言われた。でも、自分が病んで初めて、甘えではない事がわかったのである。
頑張ってもどうにもならない事もあると思い知らされた。
親からは毎日叱責・非難され、多感で不安定な私は思ったものだった。
「いい子である私でなければ、彼らは私を好きではないのか」
母親からは、障がいのことも事あるごとに非難されていた。
「ブーツカットのジーンズやスカートを履くな。足が長く見えると歩き方も目立つ」とか「走ったら踊ってるみたいに見えるから走るな」なんていわれるのはしょっちゅうで、大学に入るまで制服以外でスカートなんて買わなかった。
他人に何と言われようが耐えられるけれど、いくつになっても親から言われるのは、固くなった心でさえも容赦なく刺さる。。
私は一度でいいから「背伸びをしていない私」を「好きだ」と言ってほしかったのだ。他人から認められたいという欲求は今も人一倍強い。
留年が確定した時は、人生に絶望したけれど、逆にあの時病気になっていなければ・・・と思うと怖い。あのときのまま、棘を持ったまま鋭い眼をして生きていたか、それかもっと大きいしっぺ返しで、それこそひっきーになってたかもしれないし。きっと今の大学にも入ってなかっただろう。詩をかくようになったのもちょうどその少し前からだ。
昔を知る友達などは一様に「雰囲気がやわらかくなった」とか「変わった」と口にする。結局は痛みでさえもいい変化をもたらしてくれた。
人生って、どんなに悪くてもやっぱ捨てたもんじゃないと今思う。
やっぱり人って生かされてるのかな。なんかその時は納得が行かなくても、あとから振り返ればいい方向に働いてたりする。大きな力で操られてる気がする。
んーーー就活もきっと大丈夫って思いたい!!笑
友達は「就活を楽しむ」と言った。 そのセリフが言える彼女の姿勢を少し見習わねばと思った。
別の友達は就活せず院試を受けると宣言した。少し羨ましい。
本音を言うと、来年7月の教採に向け、コレ1本で行きたいところ。でも、教職浪人のリスクを考えれば就活せざるを得ない。
せめて親が大阪に住んでいれば、塾のバイトや、大阪府の講師登録をして非常勤でいくつかの学校で働くという手もあるねんけど、そうもいかない。自分の住処の家賃、生活費、奨学金の返済、車のローン(予定)を考えると本採用がいちばんいいんやけど。
教採にも身障者枠があるので、それを狙おうと思う。その方が配属先の学校なども配慮してくれるようだ。
ただ、一般企業の場合は職種が事務に限られていたり、初任給も微妙に差があったりで格差を感じる。
ネックは数学。何せ高校時代に3点という何とも情けない点数を取ってしまったのだ。もうXもyも見たいとすら思わない・苦笑
中学の頃に担任から「めぐは国語の成績がいいから国語の教師になったらどうや」と言われて、「ぜったい嫌!死んでもなりたくない!(先生に失礼)なんて言ってたのに、気持ちとは変化するものだ。ぜったいなりたくなかった教師に、今は是が非でもなりたいと思ってるんやから。
中学の頃は何故か英語の成績は普通で(いつもどんなに点を取っても絶対評価で4やった)、歴史や公民が5というある種キモい成績を取っていた。その頃は社会の方がすきやったし。今はもう半分も覚えてないけど。
教師になれても、考えていかなければならない事はたくさんある。
まず板書をどうするか。 少し前までは1時間くらい立ちっぱなしでも全然平気やったのに最近めっきり衰えてしまった。パワーポイントを使うって手もあるけど、板書が大事な中学生にパワーポイントで授業をしていいのか、疑問やし。まぁこれは教育実習に行ったときに現場の先生に聞いてみよう。
今までは「学ぶ」立場やったから、色々配慮もして頂いた。進学する時にはトイレの一部を洋式便器にしたり怪談に手すりをつけてくれたり。それがあったから今まで学校に来れた。
大学は元からほとんど洋式トイレやし、エレベーターもついてるけど、入学時にはなかった手すりが増えているのを見るとやっぱ有難い。
でも「働く」立場になれば、どうか。
母に言われた言葉が今も突き刺さっている。
「いくらいい大学出たって、就職できな意味ないんよ。学歴なくてもよう動く体があれば、こき使ってもくれるけど、あんたなんてこき使える体でもないやないの」
母のこういうところが嫌い。こういうセリフを私を前にして吐ける神経もわからへん。確かに事実だ。学歴などなくても身を粉にして働ける職はたくさんある。そんなこと、私が一番よくわかっている。
大学に行く時も、最後まで反対し、こう言った。
「あんたみたいなひょろひょろの足で都会へ出て何ができるの?」と。
こう見えて結構傷つくねんけどな。わかんないかな、母。。実際あんたよりはたくましく生きてるし・笑
別に大学に入ったのだって、学歴がほしいからじゃない。英語がもっとやりたかったから。教師になりたかったから。
この大学を選んだのだって、偏差値が高いからじゃない。ネームバリューがあるからでもない。校風とか中身に魅力を感じたからだ。
それやのに周りの人から、大学の名前を言う度に「よくできるのねぇ」なんて言われると、なんか嫌気が差した。
「国公立と同志社以外は大学じゃない」なんて言っていた親戚が、今の大学に入った途端、ころっと態度を変えた。人間って、なんや。学歴ってなんなんや。自分が何を得たか、が大事なんちゃうんか。
ちなみにその親戚の子は、関西最高峰の大学に合格した。なんか「勝ち組」オーラをその辺から飛ばしまくるのやめてほしい。本人はそんなに楽しくないみたいやけど。。それ見てるとかわいそう。親だけが満足して、行ってる本人が充実してないって不本意。。やっぱ4年も通うとこ、人間や雰囲気も合わなければ疲れてしまう。
何故かウチの大学は「居心地いい」っていう友達が多い。私もめっちゃ居心地がいい。環境の変化が苦手やから、入りたてのころはだいぶしんどかったけど。授業なくても散歩しにふらっと学校に出かけるなんて入学前は考えもしなかったし。でも今ここで得たもんはおっきいと思う
学校が楽しいと思えるようになったのは大学に入ってからやし
でもいつまでもモラトリアムではいられへん。時間にも自由にも恵まれた時期には限りがある。
私は、たとえ獣道だって切り開いていってやる!!!!!!!
私が院へ進学したいことを唯一知っている叔母は、院試も受けて就活もして且つ、教採も受けなさい・・・なんていうけれど、そんなトリプルなんて・・・・。。叔母も自分で何もかも切り開いてきた人だ。東京の某大学の受験の受験料、会場への交通費、それらを新聞配達のバイト代でまかない、おばあちゃんは合格通知を受け取るまで受けたことすら知らんかったらしい。
授業料も給付の奨学金で一部をまかなったらしいし、仕送りも母に送られていたのよりはずっと少なかったようだ。ちなみに母は、大学の学費もおばあちゃんがすべて出していた。
そんなだからか、叔母の理想は高い。他人にある程度厳しいのはいいことやけど、最近思う。
すべての人にその厳しさを押し付けてはいけない、と。厳しさを万人に求めてはいけないのだ。他人は皆自分とは違い、別のペースを持っている。私も病気になるまで気が付かなかった。
病気になる前の私は、成績もそんなに悪くはなかったし、勉強ができるのが人生にとっていい、という考えやった。いじめに遭っても、休む事無く登校した。不登校のニュースなんかを見ると「甘えてる。我慢がたりない」と斬り捨てるような人間やった。プライドも高かった。勉強できひん子が、それに危機感を感じていないことも「アホや」とすら思っていた。
高校に入ってすぐ、気持ちに体がついていかなくなった。別に学校に問題があるわけではない。行きたいのに体が言うことを利かない。
医者から下された診断は、自律神経失調症。幼児期からのストレスの積み重なりでしょう、らしい。でも今から思えば欝もあったと思う。毎日自分はなんで生きてるんやろ・・・とか、死んでしまった方がいい、とか思っていた。あのときの病み様は今の「プチ鬱」の比じゃない。
毎日毎日夜の暗闇が怖くて(体の不調が出る)、眠れず朝方寝ては昼過ぎに起きるという生活をして、調子のいいときに学校に行っては、進んだ勉強に唖然とし、さらに病む、の繰り返しやった。その頃の担任には迷惑をかけた。毎日欠席日数を数える・・・なんて胃が痛くなりそうやし・笑
そのとき周囲からは「甘え」だと言われた。でも、自分が病んで初めて、甘えではない事がわかったのである。
頑張ってもどうにもならない事もあると思い知らされた。
親からは毎日叱責・非難され、多感で不安定な私は思ったものだった。
「いい子である私でなければ、彼らは私を好きではないのか」
母親からは、障がいのことも事あるごとに非難されていた。
「ブーツカットのジーンズやスカートを履くな。足が長く見えると歩き方も目立つ」とか「走ったら踊ってるみたいに見えるから走るな」なんていわれるのはしょっちゅうで、大学に入るまで制服以外でスカートなんて買わなかった。
他人に何と言われようが耐えられるけれど、いくつになっても親から言われるのは、固くなった心でさえも容赦なく刺さる。。
私は一度でいいから「背伸びをしていない私」を「好きだ」と言ってほしかったのだ。他人から認められたいという欲求は今も人一倍強い。
留年が確定した時は、人生に絶望したけれど、逆にあの時病気になっていなければ・・・と思うと怖い。あのときのまま、棘を持ったまま鋭い眼をして生きていたか、それかもっと大きいしっぺ返しで、それこそひっきーになってたかもしれないし。きっと今の大学にも入ってなかっただろう。詩をかくようになったのもちょうどその少し前からだ。
昔を知る友達などは一様に「雰囲気がやわらかくなった」とか「変わった」と口にする。結局は痛みでさえもいい変化をもたらしてくれた。
人生って、どんなに悪くてもやっぱ捨てたもんじゃないと今思う。
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CPと闘いながら、やさぐれた社会人やってますw
詩を創るのが趣味。でも最近は忙しくてなかなか創作できません。
夕暮れの空が大好きですww
良い空があれば撮り貯めてますが、キレイに撮れないのがなやみ;
このブログでは日常や好きな音楽、本のレビューを綴ります☆徒然なる独り言にお付き合い下さい♪
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