Think&Said to Myself
日々の日記と思いをミク●ィより赤裸々に(笑)綴りますw
ことばはいきもの
「めぐさーん。元気でやってるかぁー?」
背後から張りのあるよく通るテノール振り返らずとも声の正体はわかる。A先生だ。
木曜の3限目。確かA先生は「英語学基礎研究」という2回生配当の授業の筈だ。A先生が学舎内にいるということは、もうチャイムが鳴ってから15分は過ぎているだろうと、「今日は急ぐからー」と言いながらも悠々と去っていく先生の背中を見届け、自分の講義の教室までダッシュ
エレベーターがなかなかこないので、仕方なく6階まで駆け上がった。。4回ともなれば学部内では高齢者だ10代の子らは階段使えよ・・・と思う。年寄り・・もとい先輩優先だろうが笑
めっちゃくちゃ急いだにも関わらず教室に着いたのはチャイムから10分も過ぎていなかった。A先生、今日は(いつもより)早かったようだ。
どうも学年が上の授業になるにつれ、遅刻の分数も比例する気がするのは私だけだろうか。おそらく上位年次生になれば「もう俺の癖知ってるだろ」的なものがあるような気がしてならない。1回生とかなら、先生が遅れるなんて・・って言う子もいるからね。。
苦し紛れで進めた第3章の初めの1000字は一蹴されてしまった。
書くことは同じなのだが、それを書いていく過程でどの理論を前面に押し出すのかは後々結論を出すときにも重要になってくる。
はじめOEDの細かい文字と睨めっこをして、どこを抜き出すかいちいち頭をひねっていた私だったが、
「そこは語義や意味で以て立証するんじゃなく、歴史的観点からアプローチするほうが良い」と言われた。
ひねり出した1000字ではあったものの、先生が出してくれた方向性の方が私のやり方よりもすごく書き進め易い方法だったので、躊躇なく第3章を振り出しに戻した。
一応の提出期限は12月18日。ちょうど一週間後。
しかし今年はなかなか込み入ったことをしている学生が多いので、最終は25~27の間ということになっている。その間に修正が必要な学生は個別に研究室に呼び出される。
本格的に冬期講習が始まるのが25日から。それまでに卒論にはカタをつけたい。
先週預けておいた第2章の原稿は、「めぐさんの論文ねぇ、見たんだけども、どこへ行ったのやら・・・」
今日、文章校正したものを持ってきてくれている筈という淡い期待は、やはり裏切られたしかし、この程度で腹を立てていては先生のゼミ生など務まらない。
先生の研究室は一度足を踏み入れたら出られない樹海だという噂もあるし、とりあえず本や学術書その他もろもろのもので迷路のようになっているであろうA先生の部屋で、なにかをどこに置いたかわからないとなれば、探し出すのは余程の気合を入れて臨まねば無理だ。
大事なものをあずける際には、必ず控えを取る、それが無理なものならば先生の個研に預けるのではなく、合同研究室か院生の友達のロッカーの片隅を借りる・・・がAゼミの暗黙のルールである。
「えーーー先生なくしたんですか」と文句を言いつつ、内心は予想済み。想定内の出来事なのだ。文献から引用した箇所の邦訳が完璧であるという保証もないので、また来週同じ原稿を持っていって改めてチェックしてもらおう。
Aゼミにいると、英語がコミュニケーションツールとしての言語なのだ、と改めて実感させられる。
英語学や英文学を専攻している子の中にも、「英語ってパズルみたいじゃん」と言う子もいるし、予備校等で、「英語も数学と同じだ!公式(構文や文法事項)を覚えて、それを暗記し、使えばいい」と教える講師も多々いる。
私も高校2年までは、そんなものかなぁ・・と思っていた。
でも、オーストラリアに行って、実際に「言語」として使われている英語を聞いて、衝撃を受けた。
教科書で習った英語は、ほんの一部分で、日本に流行語や若者言葉があるように英語にもそれらがあり、言語だから当然方言もある。
私たちが「これが英語のすべてです」みたいな感じで教えられてきた英語は、氷山の一角の、そのまたひとかけらでしかない。
それまで漠然と、「大学では英語を専攻して、英語が話せるようになって教員免許も取る」と思っていたけど、そのときはっきり「自分は英語学をする」と決めた出来事でもあった。
たった20日の語学研修とは言っても、結構な費用が掛かる。あの時祖母が「おばあちゃんが出してあげるから行っておいで」と言ってくれなかったら、そもそも今の大学を選んでいなかったし(平凡に教育学部とかに行ってただろう)数ある英語の分野の中でも、特に英語学を専攻したりもしなかっただろう。Aゼミを選ぶことも。。
保守的な祖母だが、叔母が英語を専攻していてアメリカの大学への留学経験もあることから、母親より海外で勉強させることへの抵抗がない。それも幸いした。
当初、母親は20日といっても許しはしなかった。
今、私は現在完了形について論じている。日本での教育の特性上、agoは現在完了と共に用いられないとあるけれど、最近の話し言葉では、現在完了とago を一緒に使う例も増えている。でも、それでも非文ではないのだ。それが何故かは、論文の核心になるのでまだ言わない。。
言葉と言うのは生きていると改めてひしひしと思う。
この記事へのトラックバック
トラックバックURL
CALENDAR
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
最新TB
プロフィール
詩を創るのが趣味。でも最近は忙しくてなかなか創作できません。
夕暮れの空が大好きですww
良い空があれば撮り貯めてますが、キレイに撮れないのがなやみ;
このブログでは日常や好きな音楽、本のレビューを綴ります☆徒然なる独り言にお付き合い下さい♪
この記事へのコメント