Think&Said to Myself
日々の日記と思いをミク●ィより赤裸々に(笑)綴りますw
再生へのスタートライン
もうすっかり2週間に一度の癒しの場となったリハビリ数年前の私なら想像もしなかったこと。
もう初めて今の病院のドアを跨いでから、3年が過ぎようとしている。ちょうど産休明けで担当してくれたN先生の子どもも3歳。なんだか一緒に成長しているようで勝手に親近感が湧く笑
今。N先生ともすっかり信頼関係が出来上がり、お互い色々な話をするようになった。
今日はお互い、子どものグチ。
私は聞き分けがなくなってきた生徒たちの。
先生のほうは、そろそろ第一次反抗期に入ろうかというお子様の。
「もう、ほんまに今週はしんどっくてねー、月曜から金曜の夜を待ちわびてたんですよ」
爆笑するP.T.
「昨日は『もう我慢できひん』と思ってビールかっ食らいました仕事帰りのビールがおいしいなんて、オッサンですね、やばいなー私。」
『めぐさん飲めるんやねー』
「でも最近疲れてるからなんですかね・・・まわるのが早くって。頭はしっかりしてるのにね、足元はふらふらになっちゃうんですよ」
本性もたまに垣間見せるようになり・笑
『25過ぎたら弱くなるよー』
まだ25じゃないですーなんて話もしながら、時折超まぢめにCPの話もする。
今日は最近思い悩んでいることを言ってみた。
「生徒がね、私に対して何か言ってきたときにどこまで私が注意していいものなんか・・・っていうのんで、最近ずっと思ってて・・・あんまがみがみ言っても客観的にあかんというより、私が言われて腹立ってるだけって感じに見えるじゃないですか」
生徒も子どもなりによく理解していて、たとえどんなに私に腹を立てようが、わざとぶつかるような姑息なまねはしない。でも、ここのところ言葉によるものが目立っていた。
それほど目くじらを立てるほどの暴言でもないけれど、そういうのには慣れているといえど、それでもやはり傷つくものだった。
「この間もリレーの選抜メンバーが決まらなくて、生徒とモメたんですよ。そん時にある子がね『どうせ先生らリレーとか出たことないからウチらの気持ちがわからへんねん』って言われて、思わず『(リレーに出たこと)あるわ!!』ってムキになってしまって・・・器ちっさいなぁと思って自己嫌悪ですわ」
本当はリレーも運動会や体育祭も毎年出てたと言うと、その子が「どうやって出るねん」みたいな人を馬鹿にした厭らしい顔で笑ったことで、私の心はさらにえぐられたのだが、相手は子ども。そんな内心を悟られないようにした。
誰もいなくなった教室に私の悲しみが場違いにぷかぷかと浮いていた。
掃除が終わったばかりのきれいな黒板を力を入れて消した。それも飽きるとチョーク受けの白墨を馬鹿みたいにきっちり拭いた。そうでもしなければ気が紛れそうになかった。そうでもしても気は紛れなかったが。
『教師と生徒じゃなくて、ひとりの人間と人間って考えたら、別にムキになっても怒ってもいいんじゃないかなぁ。こんなん言われたら傷つくねんって教えてあげた方がいいと思うのよー。きっとわからへんのやろうし』
ふむむ
『私も子どもに怒ってばっかりになっちゃっててね~、保育士さんに言ったら、『人間だから怒ってる姿を見せたっていいのよ、そうやって親子関係を築いていくんだから四六時中良いお母さんじゃなくていい』て言われて楽になったわー。めぐさんも良い教師であろうとしなくていいんじゃないかな』
ふむふむ
「リレーの件だって、私からしてみれば『お前ら走れるのに贅沢な』って思っちゃうんですけど」
『言ってやりゃいいやん』
「そんなん、私の都合じゃないっすか。でも、ほんま良いもの持ってるのに、それを活かそうとせえへんのはもったいないですよね」
自分が当たり前に持っている健康の尊さを伝えられない、歯痒さ。
「なんかね、当たり前にできるような簡単な人の気持ちや痛みを察することができなくなってる子が多いと思うんです。私の話も全然入ってかないし。『なんか言ってはるわ』みたいな感じで」
『それ子どもの担任の先生も言ってたわ。3歳や4歳からでも人の気持ちを推し量る力がない子が多いって。だからね、『毎日1度は抱きしめて大好きって言ってあげてください』って言われるんやけど、(そんなケツの痒いことできるか!!)ってなかなかね・・・』
先生もたまに本性覗かしはる笑
どうやらなんだか似ているらしい。このP.T.とクランケ。笑
「ビリになるのが嫌やって抜かすからね、『ビリの特権は全員の背中が見えることやねん!そんなんビリだけや』言うたら『だから?』って流されましたよ。」
『めぐさんおもろいなぁ』
「全員の頑張ってる背中を見れるのはビリだけやのにねぇ。考えようですよ。自分の背中は絶対見れへん。でも頑張ってる姿を誰かが絶対見てるし。そういうの判ってもらえないんでしょーかね・・・」
もどかしさは募るばっかし。ほんま無力。。
さて、この日も癒し系P.T.はといえばプロ意識200%で親御さんに丁寧に自宅で出来るリハビリを、いつもののほほんとした口調ではなく、働きマンモードに入ったピリっ、パシっな矢のような口調で仕込んでいた。
私はといえば、勿論その表情や話し方に癒されはするものの、少し自分の想いに距離を置けるようになってきた。
当たり前の話だが、真剣に今起きていること、今後のことを一緒に悩んでくれるのはどのクランケに対しても一律に平等なのだ。
彼の私を見る目はひとりの人間として以前にひとりのクランケ。
私のリハビリ後の歩き方を観察する眼なんか、まさにそうだ。
期待してもだめというわかりきった事実が具体性を伴って心にすとんと落ちていく。
まだ少しフクザツだけれど、前みたいに焦がれるようにそのやさしさを求める焦燥感はだいぶ減ってなくなりそうである。
もしまた、製外の医師に会ったときみたいに自分のために真剣に意見されたら、どうせまた心はぐちゃぐちゃになるのだろうけど。。
その前に、誰か別の人にぐちゃぐちゃにかき回してもらえば問題ないかな・笑
少し前のログで悪化の一途を辿るだけなのにどうしてそんなにプロ意識を保てるのか。その原動力は何なのかと書いたと思うが、最近問うたわけではないけれど、少しその原動力がわかった気がする。
少し前までの私は、来るべき悪化に備えているという感じだった。
いかに心静かにその時を迎えるかということに全焦点が当たっていたのだ。
けれど。ここ数週間で確実に自分の中で何かが変わった。再び闘う気になったのだ。
それはP.T.の師匠であるK先生に教わった自主リハが効いているという事実にも後押しされているが、どのクランケにも言える事がひとつある。
病気や障がいの程度がどうであれ、それが悪くなるものであれ、その事実は変えられなくても、今日を、明日を生きる姿勢というのはその人次第でかえられる。
嘆いて自分は不幸だと思いながら、涙に咽び生きるのか。
それとも微かな日常の喜びを掴み取る努力をしながら、笑顔を絶やさずに生きるのか。
もちろん、前者をまったく知らないのもなかなかないこと。
きっと想像だにしない苦しみに直面したとき、それを即座に受け容れられる人間もそういない。
でも、前向きに生きようとしない人間にチャンスや運は巡ってこない。
嘆いている人がそういうものを掴むときだって、このままじゃいけないと思ってからだと思うのだ。
待っている運命がどれほど酷でも、前向きに生きるということは誰の上にも平等にありえるもので、唯一その身体能力の差に左右されず手にすることが出来るもの。
ならば、少しでも前向きに生きられるようサポートするのもP.T.の大事な役目
昨日まで嘆いていた人が、今日しっかりと明日を見据えられるようになったなら。
たとえ体は動けなくなろうとも、P.T.は無力じゃない。
だからどんなクランケにもあれだけ真正面から向き合えるのだろうな。
勿論P.T.たちから直接聞いたわけではないから私の推測でしかないけれど、でもきっとそうだと思うのだ。
私も昔はどれだけ自主リハを勧められても面倒くささが先行して、なかなか実行しなかった。
でも今回、効果が証明されたのも手伝って三日坊主にならずに済んでいる。
私が維持しようと頑張れば、きっとP.T.の心にも何か変化がもたらされるだろうと信じている。
それで相互にプラスになれば、それはスゴイ事だ
最近担当P.T.はにわかに気合いが入っていて、今回も予定の時間をオーバーしてクランケが私だけになってもリハビリをしてくれた。
その期待に私も応えなきゃ。
同じ悪くなるという結果が、たとえ変わらなくても後々振り返ったとき指をくわえてみているだけだったという結果は避けたい。
いつも癒し系P.T.が私には「お疲れ様」と言わず「こちらこそありがとうございました」と言うのは・・・そしてこれからもそう言ってもらえるのかは私の姿勢に掛かっている。
私もただクランケとしてされるがままになるだけでなく、周りに何かプラスの影響を残せる人で在りたい。
もう初めて今の病院のドアを跨いでから、3年が過ぎようとしている。ちょうど産休明けで担当してくれたN先生の子どもも3歳。なんだか一緒に成長しているようで勝手に親近感が湧く笑
今。N先生ともすっかり信頼関係が出来上がり、お互い色々な話をするようになった。
今日はお互い、子どものグチ。
私は聞き分けがなくなってきた生徒たちの。
先生のほうは、そろそろ第一次反抗期に入ろうかというお子様の。
「もう、ほんまに今週はしんどっくてねー、月曜から金曜の夜を待ちわびてたんですよ」
爆笑するP.T.
「昨日は『もう我慢できひん』と思ってビールかっ食らいました仕事帰りのビールがおいしいなんて、オッサンですね、やばいなー私。」
『めぐさん飲めるんやねー』
「でも最近疲れてるからなんですかね・・・まわるのが早くって。頭はしっかりしてるのにね、足元はふらふらになっちゃうんですよ」
本性もたまに垣間見せるようになり・笑
『25過ぎたら弱くなるよー』
まだ25じゃないですーなんて話もしながら、時折超まぢめにCPの話もする。
今日は最近思い悩んでいることを言ってみた。
「生徒がね、私に対して何か言ってきたときにどこまで私が注意していいものなんか・・・っていうのんで、最近ずっと思ってて・・・あんまがみがみ言っても客観的にあかんというより、私が言われて腹立ってるだけって感じに見えるじゃないですか」
生徒も子どもなりによく理解していて、たとえどんなに私に腹を立てようが、わざとぶつかるような姑息なまねはしない。でも、ここのところ言葉によるものが目立っていた。
それほど目くじらを立てるほどの暴言でもないけれど、そういうのには慣れているといえど、それでもやはり傷つくものだった。
「この間もリレーの選抜メンバーが決まらなくて、生徒とモメたんですよ。そん時にある子がね『どうせ先生らリレーとか出たことないからウチらの気持ちがわからへんねん』って言われて、思わず『(リレーに出たこと)あるわ!!』ってムキになってしまって・・・器ちっさいなぁと思って自己嫌悪ですわ」
本当はリレーも運動会や体育祭も毎年出てたと言うと、その子が「どうやって出るねん」みたいな人を馬鹿にした厭らしい顔で笑ったことで、私の心はさらにえぐられたのだが、相手は子ども。そんな内心を悟られないようにした。
誰もいなくなった教室に私の悲しみが場違いにぷかぷかと浮いていた。
掃除が終わったばかりのきれいな黒板を力を入れて消した。それも飽きるとチョーク受けの白墨を馬鹿みたいにきっちり拭いた。そうでもしなければ気が紛れそうになかった。そうでもしても気は紛れなかったが。
『教師と生徒じゃなくて、ひとりの人間と人間って考えたら、別にムキになっても怒ってもいいんじゃないかなぁ。こんなん言われたら傷つくねんって教えてあげた方がいいと思うのよー。きっとわからへんのやろうし』
ふむむ
『私も子どもに怒ってばっかりになっちゃっててね~、保育士さんに言ったら、『人間だから怒ってる姿を見せたっていいのよ、そうやって親子関係を築いていくんだから四六時中良いお母さんじゃなくていい』て言われて楽になったわー。めぐさんも良い教師であろうとしなくていいんじゃないかな』
ふむふむ
「リレーの件だって、私からしてみれば『お前ら走れるのに贅沢な』って思っちゃうんですけど」
『言ってやりゃいいやん』
「そんなん、私の都合じゃないっすか。でも、ほんま良いもの持ってるのに、それを活かそうとせえへんのはもったいないですよね」
自分が当たり前に持っている健康の尊さを伝えられない、歯痒さ。
「なんかね、当たり前にできるような簡単な人の気持ちや痛みを察することができなくなってる子が多いと思うんです。私の話も全然入ってかないし。『なんか言ってはるわ』みたいな感じで」
『それ子どもの担任の先生も言ってたわ。3歳や4歳からでも人の気持ちを推し量る力がない子が多いって。だからね、『毎日1度は抱きしめて大好きって言ってあげてください』って言われるんやけど、(そんなケツの痒いことできるか!!)ってなかなかね・・・』
先生もたまに本性覗かしはる笑
どうやらなんだか似ているらしい。このP.T.とクランケ。笑
「ビリになるのが嫌やって抜かすからね、『ビリの特権は全員の背中が見えることやねん!そんなんビリだけや』言うたら『だから?』って流されましたよ。」
『めぐさんおもろいなぁ』
「全員の頑張ってる背中を見れるのはビリだけやのにねぇ。考えようですよ。自分の背中は絶対見れへん。でも頑張ってる姿を誰かが絶対見てるし。そういうの判ってもらえないんでしょーかね・・・」
もどかしさは募るばっかし。ほんま無力。。
さて、この日も癒し系P.T.はといえばプロ意識200%で親御さんに丁寧に自宅で出来るリハビリを、いつもののほほんとした口調ではなく、働きマンモードに入ったピリっ、パシっな矢のような口調で仕込んでいた。
私はといえば、勿論その表情や話し方に癒されはするものの、少し自分の想いに距離を置けるようになってきた。
当たり前の話だが、真剣に今起きていること、今後のことを一緒に悩んでくれるのはどのクランケに対しても一律に平等なのだ。
彼の私を見る目はひとりの人間として以前にひとりのクランケ。
私のリハビリ後の歩き方を観察する眼なんか、まさにそうだ。
期待してもだめというわかりきった事実が具体性を伴って心にすとんと落ちていく。
まだ少しフクザツだけれど、前みたいに焦がれるようにそのやさしさを求める焦燥感はだいぶ減ってなくなりそうである。
もしまた、製外の医師に会ったときみたいに自分のために真剣に意見されたら、どうせまた心はぐちゃぐちゃになるのだろうけど。。
その前に、誰か別の人にぐちゃぐちゃにかき回してもらえば問題ないかな・笑
少し前のログで悪化の一途を辿るだけなのにどうしてそんなにプロ意識を保てるのか。その原動力は何なのかと書いたと思うが、最近問うたわけではないけれど、少しその原動力がわかった気がする。
少し前までの私は、来るべき悪化に備えているという感じだった。
いかに心静かにその時を迎えるかということに全焦点が当たっていたのだ。
けれど。ここ数週間で確実に自分の中で何かが変わった。再び闘う気になったのだ。
それはP.T.の師匠であるK先生に教わった自主リハが効いているという事実にも後押しされているが、どのクランケにも言える事がひとつある。
病気や障がいの程度がどうであれ、それが悪くなるものであれ、その事実は変えられなくても、今日を、明日を生きる姿勢というのはその人次第でかえられる。
嘆いて自分は不幸だと思いながら、涙に咽び生きるのか。
それとも微かな日常の喜びを掴み取る努力をしながら、笑顔を絶やさずに生きるのか。
もちろん、前者をまったく知らないのもなかなかないこと。
きっと想像だにしない苦しみに直面したとき、それを即座に受け容れられる人間もそういない。
でも、前向きに生きようとしない人間にチャンスや運は巡ってこない。
嘆いている人がそういうものを掴むときだって、このままじゃいけないと思ってからだと思うのだ。
待っている運命がどれほど酷でも、前向きに生きるということは誰の上にも平等にありえるもので、唯一その身体能力の差に左右されず手にすることが出来るもの。
ならば、少しでも前向きに生きられるようサポートするのもP.T.の大事な役目
昨日まで嘆いていた人が、今日しっかりと明日を見据えられるようになったなら。
たとえ体は動けなくなろうとも、P.T.は無力じゃない。
だからどんなクランケにもあれだけ真正面から向き合えるのだろうな。
勿論P.T.たちから直接聞いたわけではないから私の推測でしかないけれど、でもきっとそうだと思うのだ。
私も昔はどれだけ自主リハを勧められても面倒くささが先行して、なかなか実行しなかった。
でも今回、効果が証明されたのも手伝って三日坊主にならずに済んでいる。
私が維持しようと頑張れば、きっとP.T.の心にも何か変化がもたらされるだろうと信じている。
それで相互にプラスになれば、それはスゴイ事だ
最近担当P.T.はにわかに気合いが入っていて、今回も予定の時間をオーバーしてクランケが私だけになってもリハビリをしてくれた。
その期待に私も応えなきゃ。
同じ悪くなるという結果が、たとえ変わらなくても後々振り返ったとき指をくわえてみているだけだったという結果は避けたい。
いつも癒し系P.T.が私には「お疲れ様」と言わず「こちらこそありがとうございました」と言うのは・・・そしてこれからもそう言ってもらえるのかは私の姿勢に掛かっている。
私もただクランケとしてされるがままになるだけでなく、周りに何かプラスの影響を残せる人で在りたい。
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CPと闘いながら、やさぐれた社会人やってますw
詩を創るのが趣味。でも最近は忙しくてなかなか創作できません。
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良い空があれば撮り貯めてますが、キレイに撮れないのがなやみ;
このブログでは日常や好きな音楽、本のレビューを綴ります☆徒然なる独り言にお付き合い下さい♪
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