Think&Said to Myself
日々の日記と思いをミク●ィより赤裸々に(笑)綴りますw
蒼色の部屋で
いつのまにか、夜中の3時久々に過敏性に不意打ちを食らわされ、痛みに苦しんでいた。
&
母と電話していた。
母との電話は、いつの日も僅かな欲求不満や消化不良を残して終わる。今日もいつものように。。
今日も例によって私が母を諭すか、母の若干我儘な理論を聴くかで終わってしまい、哀しさだけが部屋を埋めて行く。
それに気付いて泣きたくなったけれど、でも私が彼女と違う人間で、彼女の求める人間にはなれないように、彼女もまた、私とは違う人間で、私の求める母親像になど当てはまる気もなく、私もそこに当てはめようとしてはならないのだ。たぶん。。
それを親だから私の事には100%理解を示してなんていう願いはただの我儘でしかなく、それは私のエゴに他ならない。寂しいけど、たぶんこれでいいのだ。
まだ反論しつつも、反論するという事は、私の話を聞いているという証拠だから。それだけでいい。
応援してくれる人は、彼女じゃなくても沢山いる。
でもやっぱり親子だから、彼女にも理解して欲しいというのは、私のエゴだろうか。。
親にとって子は、ほとんどの場合1分の1だ。常に1番だ。
でも、他人はどんなに私に理解を示しても、どんなに私を認めても、所詮はone of them。
only oneにはなれないのだ。
それでも認めてくれる、理解してくれている人がいるというのは有難いし、嬉しいから、普段は意識的にこのことを忘却する。それで今日も過ごしていく。
だれかのいちばんになりたい。一番叶いがたいものなのかもしれない。人は誰しも護るべきものが多い。大事なものも多い。
そもそも、私のいちばんは誰?誰をいちばんと思う?
定義できない。。。
今日も父がテレビを見てばかりなのが気に食わないという母。彼女は昔からメディアが嫌いだった。弱い人で膨大で、しかもそれが、何の遠慮もなく、土足で人々の生活に踏み込んでくる。
無数の情報に彼女は翻弄されてしまい、疲れる。「生き辛い人」だ。いぃ意味でも悪い意味でも「適当に流す」事ができない。すべてのニュースをくそ真面目にみていたら、誰だって疲れる。
「じゃぁさ。お父さんがテレビをあんま見なくて、ゴルフやパチンコに行ったりするのはいいわけ?」
それも嫌だという。「じゃ、世の中のパチンコやゴルフ三昧のオッサンよりはいいやん」
よほどひどい父親ではない限り、娘にとって究極の男性の理想像とは父親なのではないかと思う。
でも・・・父親と同じ男など世の中にはいない。
祖父ほど、穏やかな人も珍しく、煙草呑みではあったけど酒は飲まなかった。女性の少しのワガママも黙って流していたようだ。
父親が禁煙家なので「煙草を吸う男はありえへん」という私に「別にいいじゃない。私はお父さんが酔っ払って帰ってくるのがありえない」という母。
男の人はただ娯楽のためだけにお酒を飲むものではない。時には接待だってあったりする。そこを許す幅は持たねばならないと思う。
母は料理もまずいし、放っておけば家の中は散らかり放題で、埃だらけ。
それでも文句を言わないのは(言う気もなくなったのかも)父の寛容さであると思う。なかなかそれを受容してくれる男性も少ないので、母は恵まれているんじゃないかと思う。
だって、戦前生まれの男の人が、自分で食器洗いしたり風呂掃除したりしないよね・笑
母もそうであるように、父もどこまでも母の理想に忠実なわけではない。それは人間だから仕方がない。どの欠点に妥協するか、あるいはその人のどんな良さに妥協しないか、が大事だろう。
母は自分が満たしてほしいばかりで、自分に関わる人へ何かを与えることを知らない。
「与える」というとすぐモノのやり取りを連想する母。その下世話さに呆れるけど、ある種母も人間の究極を表しているのかもしれないと思う。
精神的なものを与えるということを、彼女は死ぬまでに理解するだろうか。
一緒にいてやすらぐだとか、前向きになれる、だとか。。。
こうして今日も母を「観察対象」のように客観的に見すぎている自分に気付くとき、自分自身に興ざめする。もっと主観的でもいいのではないか。でも私が主観的に彼女を見るには私たちはあまりに違う人間過ぎた。。
母が大学で学問を貫けなかった理由も、母のこんな所にある。
彼女は与えられるのを常に待つばかり。自分の役割も、満たされるという感情も。
高校までは否応無く与えられていくものをこなしていけばいい。けれど大学は違う。一言に英語や国語、経済と言ったって、その中に幾つもの分野があってそれらを自分の興味関心から選び取らなければならない。
能動的に、主体的に動かなければ、大学での学問は大成しない。
もちろん与えられたものをこなすのは大事だ。それは大学で、社会で生きていくいち素養であったりもする。やっているときは気付かなくても。
でも・・・それだけでも虚しい。別に大卒だけがすべてではないけれど、彼女の場合、自分の学びえたものを大学等でも社会でも生かせていないことが虚しいのだ。
あ~眠。。4時やし。。。
そこが私と彼女の違いでもある。英語に対しても彼女は自分から選んだのではなく、「英語の成績がいちばんいい」という消極的な理由だし、英語のコレをしたいというのもなかった。
私は誰に似たんだろう。同じものを選んでもそこに至る心理的プロセスはまるで違う。
おかあさん、私は貴女と対話できる日はくるのでしょうか。もし来ても、そのときにはもう遅くないですか。
今はまだいい。文句を言える相手が存在し、半ば諦めつつも「相容れることができるのでは・・・」と希望も棄てずにいられる。
でもいずれ、貴女は私より先にいく。私をおいていく。それが自然の摂理だから。
そのときに、私の行き場のない満たされなさは、どこに置けばよいのでしょうか。
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詩を創るのが趣味。でも最近は忙しくてなかなか創作できません。
夕暮れの空が大好きですww
良い空があれば撮り貯めてますが、キレイに撮れないのがなやみ;
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