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Think&Said to Myself

日々の日記と思いをミク●ィより赤裸々に(笑)綴りますw

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すぐそばの味方

『俺ね、そういうの嫌なんッスよ』

いつもの彼のように落ち着いた声だったが、その物言いにははっきり意思がこもっている気がした。


『授業をメインで持ってもらってないのに、テストの採点とかノートチェックとかそんな、まぁ言うたら面倒な仕事を先生に押し付けるみたいなんは嫌なんっすよ。だから、全クラス自分で採点します。・・・でも、どうしても無理って時は助けてください


殺伐とした、様々な思惑が浮遊する職場で、彼のように本当に人のことを考えている人間は少ない。だからこそ、時折そういうのを見せられると、救われる。


飼い殺しな身分の今、当該学年の授業は1クラスもメインで持っていない。だから、テスト採点の義務も発生しない・・・が原則なのだが、それでは私自身も存在意義を見出せない。


育ちの良いお局様は、何組と何組の採点は私がするように・・・とてきぱきと決めた。さらに、

『先生、このワークも見ておいてくれるかしら~』


一応疑問文にはなっているが、Yes以外の答えは言ってはいけないのだ、と彼女の無言の圧力が掛かる。


勿論、テスト採点にも提出物のチェックも文句はない。

でも私がどうしようもない気持ちにさせられるのは、どうも彼女が『あなたは楽をしてるんだからこれくらいやって当然でしょ』みたいな気持ちを持っているような気がするから。

私が彼女を好きになれないから、そういう物の見方をしてしまうのかもしれないけれど・・・。。



確かに仕事の負担という意味では軽いほうかもしれない。でも精神的な重圧が減ったかと言えばそうではない。

明日の授業をどうしようと、頭を抱えるのは1年生だけでよくなったので、そういう意味では重圧は減ったのだが、また違う種類の重圧が私にのしかかってきているのだ。


やっぱり私も授業を任されたい・・・と。

やっぱり飼い殺しはつらい・・・と。。


普段は敢えて考えないようにしている。どんな形であれ、教師を続けていられるだけで幸せなのだ・・と己に強く言い聞かせて。与えられた仕事にのみ意識を研ぎ澄まして考えないようにする。

でもふっと無になるとき。


たとえば、寝る前の一瞬とか、帰りの車の中とか、TVがCMに切り替わった瞬間とか。


そんな一瞬に出てきてはひどく私を困らせる。


そんな日々をすごしていることにお局は気付きもしていないだろう、きっと。




   

『先生も半分メイン持ってもらった方がええんかなってずっと考えてて・・・やっぱりTTの良さって2人いてることやと思うし。2人でないとできんこともあるし』


彼の観察眼には舌を巻く。周りをよく見ているだけじゃなく、心情まで汲み取れているんだから。
彼の彼女は幸せだな・笑  あ、でも、存在が近しくなればなるほど、冷静に見れなくなるものだけどねw笑


ずっと胸の底に押し込めていた思いを見せてみようと思った。彼ならきっと理解を示す筈だと・・。


「ぶっちゃけ言ってね、私も授業したいんですよ

『やろー?絶対そうや。授業してなんぼスもん。』

「でも管理職が決めたことやし・・・上は変わったけど・・・」

うーーーんと唸り声だけが響く。

「それに、もし私が持って(クラスの状態が)崩れたらって思ったら怖いし・・・」

『俺も、提案してもしうまいこと行かんかったらあれやから何ともよう言わんけど・・・』

「途中からやり方変わったら、子どもも混乱するやろうしねぇー」

『机間巡視するだけじゃなくて、やっぱりもっともっとできることあると思うんスよ。あんまり打ち合わせする時間ないけど、TTやからこそ出来ること考えて行きましょ』



『よっしゃーがんばろ』と喝を入れ、彼はまた目の前の解答用紙に赤ペン片手に挑み始めた。


ほんま、良い奴


2年もいたら、良い意味でも悪い意味でも組織に染まってしまう部分が出てくるのに、彼はまだ冷静に物事を見ている。


飼い殺しが本意ではないと知っていてくれるだけでも有難いのに、それを『そんなんお前が悪いねんから』で片付けられないのが、更にありがたい。


少しでも理解者がいれば、何とかやっていける。


ほんま、ありがとう
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弱き者たち

『手が空いてるんなら、刷っといて』 と 渡されたテスト原稿。

私、この学年じゃないんだけどなぁ・・なんて思いも少しは過ぎったが、急ぎの仕事はない。ぼーっとお茶でも飲んでいるよりも動いているほうが雑念を忘れられる。

印刷機に原稿をセットしていると、もうひとりの先輩先生がやってきた。

『まさかほんまに手伝わされるなんて思わんかったな』 と イタズラっぽい笑みを浮かべる。


ガシャンガシャンと規則的な音を立てながら、紙が吸い込まれ、インクをのせられ、吐き出されていく。


その音を衝立に、女のグチ大会が始まった。

一緒に印刷をした先生(A先生としよう)は、印刷を頼んだB先生が職場でいちばん苦手らしい。

B先生はクールビューティーという言葉がぴったりの女性で、体育会系で長身なことも手伝って威圧的な雰囲気を周囲に放っている。気心の知れた人間には、弱い部分も気さくな一面も見せるけれど、そうでない人間と気さくに話をするのは稀だ。

そんなわけで、彼女が心を許しきっていない人間には、非常に高圧的な言動を取る。

別に彼女にとっては、偉そうにしようとか、相手を怖がらせようという意図はないと思う。
私が思うに、それは、彼女が自分を護るための手段なのだ、きっと。

男性らしい一面のすぐ裏側に隠された女性らしいしなやかさを隠すための武器。

だから誤解も受けやすい。人目には出さなくてもきっと彼女は人知れずそのことを悩んだこともあるんじゃないかと思う。


私も新任の頃は、そんなB先生が怖くて怖くて仕方なかった。少し威圧的に声を掛けられようものならヘビに睨まれたカエル状態で縮み上がっていた。


でも人間、適応していくものである。
B先生は私を嫌いなわけではない。 ただ、そういう態度しか取れない人なのだとわかってしまうと、怖くなくなった。今ではB先生も私をあだ名で呼んでくれる。


だが、A先生はどーしてもB先生を好きになれないらしく、自分にとって合わないところを論え、しまいには『人としておかしいと思うねんな』というラストカードまで放った。


肯定も否定もせず、私は相槌をうちながら聞いていた。


この業界は、大きなストレスもあるにはあるが、日常の些細なストレスが積みあがっていくことが多い。


「私はむしろ・・・C先生が苦手です」


私もここ数週間、我慢に我慢をしていたので、言ってしまうとすごく心が軽くなった。


『あーやっぱりぃ?意外とそうじゃないかと思ってた』

C先生は、昨年私の教育係をしてくれていた先生だ。いいところのお嬢様がそのまま大人になったような感じの雰囲気で、普段は絶対スカートしか履かない。それも皆いいところのショップの服ばかりだ。
車も高級車で、身のこなしも育ちの良さがありありと透けて見える。


指導能力もピカイチで、市内でも稀に見る優秀な先生と言われ、まさに非の打ち所のない人だった。


違う学年から傍観しているうちは、アコガレの先生というだけだった。
近くで見ると、遠くからは見えなかったものが意外とよく見える。


この彼女の非の打ち所のなさが、私を極限まで追い詰めることになるのだ。


とにかく何をこなしても、完璧にこなしてしまう。

私がトロいのかもしれないけれど、頼まれた仕事を手をつけようとしているとその横からさっとやってしまい『先生がなかなかしてくれないから、もう自分でしました』とにこやかに言われる。

こういうのって、地味に、本当に地味に、自尊心を傷つけていく。


求められることが多すぎて、その半分も消化できないうちから、次のことを言われる。

まるで懸命に助けを求めているのに水中に押し込まれる気分。


くそ丁寧な口調が更に心を蝕んでいく。

『私の言ってることおわかりいただけたかしら?』

『私、何度も先生にお願いしましたよね?なんでやってくれないのかな?』


相手に逃げ場を与えない追い詰め方をする。にこにこ笑いながらトゲを放つ。真綿でじわじわとクビを締めるような、そんな苦しめ方。 私には耐えられなかった。


最初はいちいち落ち込んでいた私だったが、いつしかそれは彼女への嫌悪感へと変化していた。


仕事は完璧にこなせるけれど、子どもの気持ちは本当によく考えるけれど、周囲の人間の気持ちには気を掛けさえしないんだな・・・。


だから絶望の淵にいた私に『先生が元気を出さなきゃ』なんていう、無神経なことが言えるのだ。


最近の私は、一種のアレルギー反応で、彼女の車を見ても、近くを通って、彼女の香水だかシャンプーだかの香りがしても、姿を見るのはもう最上級に嫌悪感が増すようになってしまった。


最初はそんな自分が嫌だった。姿を見るのだけでも嫌なんて、そんな負の感情を持っていることが許せなかった。

でも最近、「いいや、嫌いでも」 と思えるようになって、少し気がらくだ。


別に嫌いだからって彼女にあからさまに態度を変えるわけでもない。普通に同僚としてにこやかに接してるだけでいいじゃないかと思えるようになったのだ。


だって、完璧っていう凶器で、私をズッタズタにしたんだから。絶対に自分が到達できないものを手本にされるの程苦しいことはない。
彼女に気に入られようと必死で頑張ったけれど、どうやっても無理で、彼女の顔色ばかりうかがう日々は、私から私の良さをも奪う結果になった。


「もう、あの真綿で首絞めるみたいなやり方がもうーーーー無理で!」

『そっかー。まだガツンと頭ごなしに言われる方が、耐えれるんやな』

「良い人なんですけどね」

『ほんとに良い人なのかなー?確かに市内でいちばん優秀だって言われるくらいだけど、その裏では先生みたいな思いをしてる人もいると思うんよなぁ。私も去年は全面的に信頼してたけど、今はそうでもないよ』



これが悪口や陰口の部類に入るのか否かはわからない。けれども、色々な人の思惑が交錯する集団の中でこうして誰かに聞いてもらわなければ自分の心が折れてしまうことだってあるのだ。

たとえば、私に休日出勤の日にリハビリに行ったことを咎めたお局様は、あちこちで気に食わない人の不満を口にし、人の欠点を論えることが多々だ。

でも最近は、むしろそちらのお局先生の方が、人間らしさを感じるのである。

彼女は悪口は言うが、隠さない。それが聞こえていようがいまいが意に介さない。他人の気持ち考えたことあるのか?と問いたいほど辛辣な物の言い方をすることも多いけれど、決して後には引かない。


でも、常に正しい立場にいて、私は何も間違った立場にいません的なところに君臨される方が、千の言葉のトゲを貰うよりも、心には堪える。


人の陰口を叩く人は、心のすごく弱い人なのだろうと思った。そして案外、そんな弱い人が多い。今の私も然りだ。

誰も、自分の胸のうちで消化できれば、口には出さない。だけれどもおさまりきらなくて、誰かに共感して欲しかったり、味方であることを確認したかったり、自分は間違っていないと証明したかったりで、この世の多くの内緒話が起こる。


それがわかれば、今まであれほど嫌悪していた、陰口を叩くおとなへの見方が少し変わった。

彼女らもまた、弱いのだ。 


そして自分の心の器の小ささに嘲笑した。


帰路につきながら思う。B先生を散々けなしたA先生に共感してあげればよかった、と。

別に自分はそんなにB先生を嫌いじゃないけれど、A先生としては、誰かに自分のおさまりきらない思いを受け止めて欲しくてぶつけたのだろう。

そういう時、「そうかなぁ?私はそう思わないけど」という答えを返してしまうと、自分なら(わかってくれなかった)と落胆するだろう。

でもたとえそれがウソであっても共感してもらえれば(気持ちをわかってくれる人がいる)って少し前向きになれるんだよね、人間て。



私もまだまだちっさい人間。
真綿でじわじわ・・を許せないんだから。

自分の小ささにため息が出るけれど、仕方ない。今はこれ以上のキャパはないから、許してね。


All man has his faults.なのにね


The most important thing in one's life

Think about the wall of over 25 その

人生において、いちばん大事なものって何なのだろう・・・って最近よく考える。


お金?愛情?
仕事?家庭?
地位?名声?
平凡な日常?
笑顔でいること??


他に何が挙げられるだろう。


今の自分はしあわせではないな、と思う。

もちろん、究極の尺度で物を言えば、ひとりには充分な広さのアパートがあり、車があり(私には必要不可欠だし)仕事と決まった収入があれば、幸福もいいところだ。これで不幸だなんて言えばバチが当たる。


物質的にはすごく恵まれている。


でも、ぽっかりあいた心の穴は埋まらない。いつになっても。


大学の頃はもちろん今みたいなお金もなかった。同世代の恵まれた子達が、釣り合わないブランド物で身を固めて通学しているのを横目で見ながら、でもそれを羨ましいと思ったことなど一度もなかった。

逆にそんなものでしか自分を飾れないなんて可哀相だとすら、思っていたのだ。


学生時代は休みの間にしゃかりきに働いてもせいぜい10万円。

それでも収入が多かったからと言って、特別今すぐ欲しくも必要でもないものを買おうとは思わなかった。
要るものと、ごくたまの、ほんのちょっとの+αで満足していた。


高いものなどなくても、物が溢れていなくても、英語学と向き合っているだけで充分楽しかった。
友達と過ごす時間も。

悩みも尽きなかったけれど、良かったなと思う。



今はどうか。

普段は毎月の生活費だけで飛んでいってしまうけれど、それでも学生時代と同じ暮らしをしたならば、充分に貯金は増えていく筈なのである。

何かにつけて、別になくてもいいものを買うのは、やはり心のどこかが満たされていない証拠だ。

本はいくらあっても構わないと思う。本は心の栄養だと思うから。

でも服は、仕事にいる分と、休みに着る分が少しと、余所行きが少しあれば、事足りる。

買った瞬間はそれで満足するのだけれど、心の底から喉から手が出るほど欲しいものでなければ、そんなにその後も満足感って続かない。

そして、あまり着ていないものを眺めては虚しくなるのだ。

だからここ1~2ヶ月、服をほとんど買っていない。学生時代は数ヶ月買わなくても当たり前だった。
オークションやサイトで、買わなくても眺めているだけで満足したしね。

でも最近はその時間さえ満足に取れないから余計かもしれない。



もっとシンプルな暮らしがしたいな、と思う。


何もかも、たくさんはなくていい。永く付き合える質のいいものが少し、でいい。


感情を失わないように、丁寧に何かと向き合いたい。


仕事を始めてから、私、価値観が流されてしまっていた・・と今更気がついた。


物質でじゃなく、心を埋める暮らしが出来ればいい。

ねじ込んだ感情のゆくえ

『辛いときは、辛い顔をしなさい』

ハッとさせられた。


ドラマ『グッドライフ』で反町隆史演じる大地が、白血病と闘う、その息子・羽雲に言った台詞である。




その瞬間、気がついた。 私も羽雲と同じくらい年齢のとき、誰かにそういう言葉を求めていたということを。。





幼い頃のことを思い出すことが増えた。時折、過去の断片がフラッシュバックする。そのほとんどがいい思い出ではない。
そのとき感じた恐怖や理不尽さ、満たされなさを冷静に分析できる年齢になった今、当時かけてほしかった言葉を脳内で反芻し、自分の癒しに繋げることがある。

それで完全に癒えるかと言えば、到底そんなことはないけれど、それでも何もしないよりはましだろう、きっと。。



何ヶ月にも渡る入院生活。
『歩きやすくなる』と信じて我慢したゴツいギプス。
そしてそれを外すときの医療用ドリルの耳を劈くような音。
知らない顔ばかりの冷たい白衣に周りを取り囲まれ、体を押さえられ、耳を塞ぎたくなる音が響く。
終始泣きもせず処置室を出ても、母はにこりともしなかったこと。

いやな音も、いたいギプスもがまんしたよ。えらかったやろ?

それでも筋肉や関節は柔らかくならず、母は言った。『やっぱりあかんなぁ』
たくさんの声にならない思いが死んでいく。

母がその思いに応えてくれることはない。ただ、結果だけ。



振り返れば、たくさんの必要のない我慢をしてきたなぁ・・と思う。
それに今気づけただけでも救いなのかもしれない。


闘病生活の中では、我慢を強いられる。
当然、我慢はしなくてはいけないし、求められる。


でも、近しい存在の人には感情をめいっぱい吐き出すことは許されていいと思うのだ。


痛いときに「痛い」と言う事。
怖いときに「怖い」と言う事。
しんどいときに「しんどい」と言う事。
がんばったことを認めてもらうこと。
泣きたい時に泣く事。


問題なのは、これらばかりして、すべき治療をしようとしないことだけれど、そうではなくて、治療を受けるのならば、「痛い」と言いながら受けたって、何も言わずじっと気持ちを押し込めて受けたって、治療後の体の状態は同じなのである。だったら、その時感じたことを吐き出して受け止めてもらった方が、精神衛生的にはずっといい。


我慢しなさいって言うのは、本当は良くないな。

痛みは我慢しなければいけないけれど、痛いときには「痛い」って言ってもいいんだって言うべきだ。



多くの闘病生活をする子どもは、我慢強い。
あるいは我慢強くなっていく。


でも親とかにはその時感じたことを素直に表現していいのだと言う事を周りはわからせてやるべきだ。


『我慢しなさい』
『聞き分けの良い子になりなさい』
『だだをこねるんじゃないの』
『我慢しないとここ(病院)に置いていくよ』

上から抑え込んで、それでも言う事を利かなければ容赦なくぶって、私は貴女に「痛い」「怖い」というのをやめた。

貴女はそれで満足した。

いつの日も、「痛いから、やめる」とは言ったことはなかったけど、貴女はその違いはわかってなかったんだろうな。

ただ共感してくれればよかった。



でも、そんな我慢、しなくてよかったやん。ねぇ?


今の私が、記憶の中の私に言ってやれるのは「頑張った」「偉かった」という労いの言葉だけだ。
それがもどかしくてならない。


でも、今気づけてよかった。自分は、自分の子どもの前で、母の二の舞を踏まずに済む。


子どもに本音をひた隠しにされる親は、実にかなしいから。



些細なTVの中の一言にも、大きな気付きがあるものだ。。

Which Way I Go?

Think about the Wall of Over 25 その

そういえば・・ 英語の苦手な方は私のブログ見るの、苦痛なんでしょうね・・
ごめんなさい。
でもこうして時々英語書いてないと落ち着かないんですよ
ちなみに聴くのは毎日デス

一応、高校英語の域は出ないように書いてるんですが。
というか、大学レベルの作文力があるのか、今となっては甚だ怪しいんですけどね。
どんどん忘れていくのよ~
同僚に『若年性難易度高い英単語アルツハイマー』なんて病名をつけられる始末・・
つーか、まんまやん・笑

訳も書けこらみたいな苦情も、あれば対応しますw



    
 
先日に引き続き、『25の壁について考えるシリーズ』第二弾。

今回は恋愛編ですw


 

・・・つづきはこちら

Think About the Wall of Over 25 その1

10代の頃は、社会人なんて、すごく大人だと思っていた。

25なんて言ったら、仕事をバリバリやっていて、適当な(結婚前提の)彼氏がいて、公私共に充実していて、着る服もユナイテッドアローズとか、アーバンリサーチなんかをばんばん買っているんだろう。

でもって有名ブランドのカバンなんて持ち歩いているに違いない。


それが大学に入りたての頃の、25歳のイメージ
 

・・・実際は??

私はまだまだコドモだし、些細なことでくよくよすれば、些細な事で腹も立てている。大人になっても人知れず泣いている。

仕事は何とかこなしているという感じで、結婚前提どころか彼氏もいやしない。公私共に充実・・・してんだろうか?
着る服は、アローズもURもアウトレットでばかり、それもボーナスを貰ってやっと買おうかな・・ってレベルで、実際の値段で買うには余程気に入ったものをようやく1着・・って感じである。

最近はURよりもジャーナルスタンダードの方がすきなんだけど、どっちにしても高い。ブラウス1枚1万超えって庶民が買えないわよ
そんなわけでいまだにアウトレットORオークションでしか買っていない。よく行く店と言えば、学生時代と変わらずユニクロやアースミュージック&エコロジー、ローリーズファームなどなど。

20歳くらいの頃、「25過ぎて、ローリーズなんて着れないよね」なんて言ってた私はどこへやら・・全然イケる・笑

そんなに顔も体も『オトナの女』にはなっていないからね苦笑


ちなみに持っている有名ブランドと言えば、成人祝いに叔母から貰ったコーチのバッグだけ。


25なんて、10代からすればキラキラ輝いているような幻想を抱くのだけれど、実際はそんなカッコよくはない。

そんな絵に描いたような25歳は、ほんの一握りだ




だけれども。
そういう幻想は幻想でしかないのだけれど、ちゃっかりと25歳なりの苦さは追いかけてくるものだ。

それこそ10代の頃は思いもしなかったような。


化粧ノリが悪くなるとか・・
ちょっと不摂生な生活をすると肌に出るとか・・・
仕事の重圧とか。
人間関係へのしがらみとか。。

ね。そんな諸々ね。。

ちょっと数回に渡って、25の壁について考えたいと思います。

あー嫌だぁ。。。年取りたくねーーーーー

職業病

この仕事を始めてから、楽しめなくなったものの1つが学園モノのドラマ。

生徒に焦点を当てたものならまだしも、特に教師が主人公であるドラマは、見ていて現実とのギャップに興ざめすることが増えた。

テレビ大阪の新番組『鈴木先生』も、現場を知らない者が見れば面白いのかもしれないけれど、胡散臭いことこの上ない。


いや、別に番組を否定しているわけではないのよただ、教師が見ると苦笑いしか出てこないっていう・・・w


いかにも的なポジションで存在している『鈴木先生』の同僚『足子先生』も、おいおい、そんじょそこらにこんな中学校教師なかなかいねえよって感じで・笑

たぶんその醸し出されている胡散臭い雰囲気が、ドラマの世界観を際立たせているから、ある程度はその胡散臭さも製作者側の意図なのだろうが。


まず舞台になっている教室の掲示物を細かくチェック。時間割に学校便り。超オーソドックス。無難な組み合わせ


で、生徒がバタフライナイフ(いつ流行ったもんだよ、これ)を所持していたことについて、職員室で口頭注意で終わり・・・な対応にも、


「絶対、最低、保護者に電話連絡はすべきやろ」なんて、心でツッコむ始末だし、『鈴木先生』の受け持ちの男子生徒が友人の妹と不純異性交遊した件の指導を見るにつけ、


「おいおいおい、こんなやりかたじゃ、教委に訴えられるどころじゃ済まないって」とか、

「そもそもこんな事件なら学年どころか学校単位で大騒ぎになりそうなのに、対応してる教師が2人ってどうよ?非現実的すぎじゃね??」的な感じで・・・



学校の先生は学園ドラマを楽しめません苦笑


もう今では金八もGTOも、「そんなにすぐ生徒の心に言葉が響くなら苦労しないっつの」と思う有様で・・・


GTOを必死で見ていたあのころの私に戻りたい・笑


医療関係者は医療系のドラマをどう見てるんだろう。
刑事さんは刑事ドラマで興ざめするんだろうか・・・そういや友達のお父さん(警察官。刑事歴もあり)はあんまり見ないって言ってたな。。


TV局さん、こんなティーチャーに分析する暇を与えないくらい、アツいドラマ頼みますよ~笑

なんてね。


単に私の心が擦り切れているだけなんだけれどもね

授業の神様

この仕事をしていると、色々ある。

子ども同士のトラブルはもちろんのこと、教師同士の人間関係も色々だし、教師と子どもとの関わりもそう。
本当に常に神経をすり減らし続ける仕事と言っても過言ではないし、何が何でも教師になりたいという人がいる一方で、絶対に教師にはなりたくないという人がいるのも事実。


自分の不甲斐なさももちろんだけれど、外的な要因でも、何度「辞めようかな・・」と思ったかしれない。

きっと世の多くの教師が同じような瞬間を必ず一度は経験しているに違いない。何の苦労もなく楽しくて楽しくて仕方がなくてここまできた、という人は海に落ちた針を探すくらいの確率なんじゃないかと思う。


じゃぁ一体何が私たちをこの仕事と繋ぎとめているのかと言えば、時折降って来る奇跡の一瞬なのだ。
学校には時々、私たちにしかわからない神様が舞い降りる。




 

・・・つづきはこちら

撥ねかえる言葉

自分がむなしくなるだけだとわかっていても、言わずにいられない。

そして、また撥ね付けられて、言葉を受け取ってすら貰えなくて後悔する。


どれだけ言っても変わらないなら、いっそ何も言わないほうがいい。
いつかわかるかも・・・変わるかも・・・なんて淡い期待を抱かずに。。
そんなの幻想だって、どこかではわかってるのに。


無機質に響く本日3度目の機械音を聴いていたら、悔しいのかむなしいのかかなしいのか、それともそのどれでもないのかわからないけど、噴出すやりきれなさを押さえられなかった。


なんで、私が悪いわけじゃないのに、私が泣かないといけないのよ。。。


そのことが悔しくて、そのやりきれなさを封じ込めようとして思いとどまった。
いや、むしろ封じ込めないほうがいい。毒は出せるべきときに出しておくべきだ。

誰も見ていないのに、どうして我慢する必要があろうか。



少し前から祖母の体調がまた不安定で、いつものように泊り込んでサポートしている(のかされてるのか)母。

1週間以上帰らずに泊り込むこともザラ。 その間当たり前ながら、父親は自宅で放置されっぱなしである。
仕事から疲れて帰っても当然ご飯もない。ただいまと言う相手がいない。

もちろん祖母ももう90を目前に控えているから、泊り込むことも仕方ないと思う。


でも母は、電話1本父によこさない。 
たまに私に電話をしてきて(しかも平日疲れきって寝ているところに夜中の0時とかに)、『お父さんに明日帰るからって言うといてよ』


私はあなたの伝書バトじゃないぞと言いたい。
それくらい夫婦でしょ、自分で言いなよ。しかも歯の浮くようなセリフじゃなくて、事務連絡に等しいやん



疲れて帰ってくる父に労いの言葉1つもなければ、祖母を見ている間、家を放りっぱなしにしていることへの詫びも1言もないのが、私には信じられない。
せめて泊り込んでいる間、暇を見つけて電話して、どうして思いやりの言葉1つ掛けてやれないのか・・・ともどかしくてならない。


まぁ、自分が家を開けている間、誰がどんな気持ちでいるかなんて彼女は想像だにしないんだろうけど



なんでさぁ、ちょっと電話してお疲れ様くらい言えないわけ?長いこと放りっぱなしで何もできなくて申し訳ないってなんで1言言えないわけ?


返事は帰ってこない。


そりゃ、おかんかておばあちゃんの病院ついてったり大変やし、転んだりしいひんか神経遣うと思うけどさ。
人のしんどいところはわかってあげへんの?


人のしんどいところなんか、汲み取る力がないに等しいとわかってはいる。
でも、どうしてだろう。言ってしまう。


私だって、平日仕事から帰ってきたらくったくたで口も利けない日だってあるよ。それでも『今仕事終わった』っていうメールが来たら、必ず『お疲れ様』って返すよ。 


誰からそんなメール来るのよ?という問いは敢えてスルーすることにする。。笑

あなたの母親(私の祖母)はおじいちゃんが脳梗塞で倒れてから、後遺症が残っても寝たきりになっておむつが必要になってもずっと介護し続けたんやで。誰にもグチの1つも言わないでさぁ。
そんな親の背中を見てて、あなたは何を学んだのよ?
物心ついたころから私は、うまく喋れない、うまく歩かれへんおじいちゃんしか見てきてないから健康な頃のおじいちゃんを知らん。でも10年以上弱音の1つも吐かずにうまく動けんくて癇癪起こして、自分は何も悪ないのに叩かれても献身的に世話をし続けたんやで。 もしオヤジがそんな状態になったら、同じことできるん?あなたに。

『無理』と即答。 おい。


この人にとって、夫ってなんだろう。子どもって何なんだろう。


確かに、あなたの望むような裕福な暮らしは、父は提供できなかった。お金のことでは絶えず苦労しているのは知っている。夫としては些か不出来だったかもしれない。

でもあなたの腹に私を宿し、父親としては最高に良い人物だった。


でも、それでさえもあなたには疎ましい対象でしかないのですから。仕方ないね。『親の権利』を履き違えてる。

親にはただ『義務』しかない。その結果与えられる権利と言えば、心身ともに健康に、日々成長していく、日々一生懸命生きるわが子の姿ではないのか。
親の権利なんてそんなもんだ。 権利と称して、自分の思いのままに動かそうなんてのは権利でも何でもない。


少しは自分にしてほしいのと同じように相手にも優しくしないと、自分にも優しくしてくれんくなるよ。


そこで、一度目の遮断。 この遮断が、いかに私の心をズタボロにしているか、あなたは知らないでしょう。


キャパがないのも、適当に聞き流せないのもわかるけど、あなたのためを思って言っていることなのよ。
どんどん社会から隔離していくあなたを見ていて、見るに堪えるから。


もう1度掛けなおす。そしてやんわりと言う。

いきなり切ったりしたら余計に人との関係がこじれるもとなんやで。第一おとなげないし、信用をなくすよ。


『だってもう遅いし、寝ないと』(これまた腹が立つ言い訳。逃げ道にして)

そういうあなただって、今よりはるかに遅い時間に掛けてきて、疲れて寝てる私を起こすのに人のこと言えないでしょ。


今度は電話は切らずにいたが、『体がしんどい』『何をするのも億劫』+父に対する文句。

グチも文句もいくらでも聞いてやるけれど、何も努力せずに文句ばかり言う人の文句と言うのは聞くに堪えない。

『しんどい』とこぼすばかりで病院には行かない。
父には文句ばかりで、自分にも周りが不満を持っているかもしれないというところには考えが及ばない。


嘆く、文句を言うだけで問題が解決するのなら誰だって苦労しない。
みんな大なり小なり、何かある。それでも苦労して、がんばって、それで生じるしんどさを誰かに吐き出しているのだ。
自分は何もせず、同じことを繰り返し嘆く、もちろん自分が何もしないから事態は変わらない、また嘆く。
そんな負のループ。


私は壁にブチ当たったとき、努力する母の姿を見たことがない。
不満を言うばかりで自分からは何もしない。そんな姿ばかり。


それもアスペルガーのせいなのかもしれないけれど(症状とかは人それぞれだし)、でも、私の知ってるアスペルガーの人はみんな、生き辛いと感じながらも社会に少しでも溶け込もうと時にパニックを起こしながらも頑張っている。

それに比べ、母とくれば・・・自分を甘やかしすぎ どんどん自分を社会から切り離そうという方向で生きている。
やっぱり実の親にそうであってほしくない。 少しは世の中に関心を持ってもらいたいし、社会と関わろうとしてほしい。
だって、本当に社会から切り離されてしまったら、きっと信じられないくらい孤独。
親も旦那もいつまでも変わりなく自分の近くにいるとは限らない。私だって、誰かと結婚し、どこかの嫁になればいちいち親のことに構っていられなくなる。

今、身内だけが唯一社会との接点な彼女に、どうにかして、社会と繋がってもらいたい。


今のままの彼女では、誰からも愛想尽かされてしまう。



あのさ、少しは努力したら?
『しんどい』って言うけど、何にもしてないやん。ほんまにしんどいんやったら医者行きや。『しんどい』って口ばっかりで、何にもその状態をよくしようと思ってないやん。
病院に行って、治療もして、それでもしんどいならいくらでも聞くけど、同じこと何年も前から言ってるやん。それやのに何もしやん、たまに病院行ったと思っても医者の言う事は利かへん。そんなんで『しんどい』言うても誰も聞かへん。

しんどい状態のまんまで自分がいいと思うなら、文句も言いなや。自分がそれでいいねんから。でも嫌やと思うんならしんどくなくするために何かせんと『しんどい』言うてるだけじゃ何も変わらんで。


まるで生徒にする説教みたいなことを親に言わなければならない、言っても心底理解されるかわからない、それを言わねばならない、しんどさ。


『お父さんは何もわかってくれん』ってじゃああなたはオヤジの何をわかってるんよ? ほんまに仕事ご苦労さんって思って、言葉や態度にしたことあるん? 労いの言葉とか1回でも掛けたことある?なんでオヤジが『ただいま』って言わずに黙って家に入ってくるか、理由考えなよ。でないと自分も一生理解してもらえん・・・


ここで2度目の遮断。 むなしい気持ちは募ってく。

もう1度掛けなおす。電源を切っていないだけまだマシか



だから、そのおとなげないのやめろっての子どもに説教されるんも鬱陶しいと思うけど、社会に出たら通用しいひん事やから言うてんねんで。 もうちょっと周りに思いやり持って過ごさんとさぁ、ほんまに独りになるで?
みんなそれなりにしんどいことあるけど、それでもみんなある程度は我慢して過ごしてるねん。生きるためには我慢せなあかんこともいっぱいあるねん。
文句言うだけで変わるんなら、誰だってそうしてるよ。 壁にぶち当たったとき、文句言うだけじゃなくて、なんで『なにくそ!』と思って頑張られへんのよ?みんなあなたよりもっともっと大変な人いっぱい・・・

『もう遅いよ、寝る』

ちょっと待ちな・・・


「さい」までは言わしてもらえず、3度目の機械音。


私の自己満足に過ぎないのかもしれない。
彼女は別に孤独でも、社会と関われなくても、全然意にも介さないのかもしれない。

むしろ社会に関われない事の苦痛より私に説教されることの苦痛の方が大きいのかも。


でもまだ彼女は知らない。社会と接点をなくしたときの本当の孤独を。
私だってそれが何たるかちっとも知らない。

でもそれがなくなれば、きっと発狂するくらいでは足りないほどの孤独だろうと思う。


相手を労うとか、思いやりとか、彼女にはちょっと難しい。それも頭ではわかってるんだけれど。
大学の頃から同じことを言い続けているのに、彼女は常に真剣に聞いちゃいない。

その時は真剣に聞くのだけれど、それが彼女の中に残らない。
翌日になれば、けろっとなかったことになる。なぜか。



彼女が変化するわけでもなく、私がしんどいだけなのに、それさえ彼女にはわからない。
自分ばかりで相手のことはおかまいなし。


さすがにむなしいし、疲れるよ。

こんなんなら、何も言わなきゃいいのだけれど、何か言わないとあまりにも父が気の毒で、私にばかり理性を求めるのも癪だし。

でも、こうしてむなしさを抱えた後、さらに自分を理性的に追い込まねばならないのだから、結局余計苦しいね。



やっぱり無理かなぁ。
相手の気持ちを受け止められる人に、彼女はなれないのかなぁ。



どれほど言っても届かない。
病気のためなのか、彼女の問題なのか。


自分が痛めつけられるだけだから、もう何も言わないほうがいいのかな。


毎回消化不良。私の彼女を思って言う言葉はすべて私を苦しめる武器に変わる。


これほど感覚が違うのも、ほんとにアスペルガーだけなのかな。


おかあさん、あなたと話すとしんどいです。
ほっとするどころか、余計なストレスまで溜め込んで。
私は誰にも頼らないのに、あなたは人に甘えてばかり。
そんなのってあんまりでしょう?

あなたが気儘に生きているしわ寄せがないと思っていますか。
でもそれにあなたは死ぬまでに気がつくでしょうか。
私の思いもわかってください。



あーほんましんどい。
自分の仕事だけで精一杯なのに今。。。

飼い殺し

年度末の環境整備に明け暮れる今日この頃。

職員室に差し込む夕陽のあかさを見ながら、もう帰ろうと思った頃だ。
校長に、

『めぐさん、ちょっと』と呼ばれた。

新任の頃、赴任してすぐは『ちょっと』と言われると、大抵いいお話が多かったけれど今はそうでない話の方が多い。
そして『ちょっと』は大抵『ちょっと』ではない。まぁ大半の教師の『ちょっと』は長いんだけどねw


「失礼します」と校長室の入り口に立つと、『んー』と曖昧な返事が返ってきた。
ますます嫌な予感がする。大抵このようなシチュエーションでは先生は『はい』と言うのにだ。


早く本題に入りたいようで、すぐに座るように促され、言われるがまま座る。
何の話かはだいたい察しがついたが、その内容は私の想像を遥かに超えるものだった。



中身は来年度の人事のことだった。 転勤はまだないが、校内人事が残っている。

『来年度は2年生にあがってもらう』

今1年生の担任をしている私にとって、その人事は有難かった。去年も1年生を担任していたが、一緒に持ち上がれなかったのを残念に思っていたからだ。
もちろん今の1年生たちもかわいい(性格が)子が多いから関われてよかったなと思うし、去年受け持った子達も学年を離れて距離を置いたから新たな関係が築けた子もいる。 
当時は暴言しか吐かなかった子が『先生今のクラス、どう?荒れてない?』なんて心配してくれるようになるんだからね
荒らしてた張本人がよく言うわ・・・と心の中で苦笑したものだが、その気持ちは素直に嬉しい。


喜んでいたのも束の間。

『副担ということで決まった』

これもなんとなくウワサで耳にしていたから、驚きはしなかった。ただちょっと寂しい気持ちはあったけれど。
子どもと関わる時間が少ないし、学級通信も書けない。学級日誌にコメントをすることもない。

でも副担はいい機会かな、とも思っていた。

なかなか担任を持っていると、他の先生の道徳とか特活とかHRのやり方を見る機会がない。いきなり実践も勉強にはなるけれど、副担なら色々な先生のやり方を実際に見る時間が出来る。
だから色んな先生を見て、今後の自分に繋げていくための時間を持つのもいいと思った。

それに、喧嘩やささいなトラブル、大きなトラブルの処理に疲れていた、というのもある。

良い充電期間にもなるかな、と考えた。


それだけならね。


でも寝耳に水とはこう言う事をいうものである。校長が放った言葉に心が凍りついた。

『(英語担当)授業はTT(ティームティーチング。2人以上の教師で1クラスを担当する)5クラス中、4クラスはT2(所謂補助的な役割) もう1クラスもT1(メインで授業をする方)にするかどうかはまだわからない』


すぐに私はその意味を理解した。が、心がそれを認めようとしなかった。鈍器で思いっきり殴られたような重い衝撃が心を掛けていく。


頭に浮かんだのは、『飼い殺し』という言葉。


担任を外されるのは、納得できる。私自身が子どもと接することに一時的に疲れてしまっていたのもあるから。

でも授業さえもマトモにほとんど持たせてもらえないなんて・・・

授業は教師の要だ。そのほとんどをさせてもらえないのは、私はここにいる意味があるだろうか。


声にならない深い息を吐き、目を閉じた。その時間は一瞬だったが、私には長く感じられた。


『この1年でゆっくり考えてください』と言われた。


これは最後通告なのだろうか。 普通の精神ならば、自分がプライドを持って選んだ仕事でこんな状態なのではやめたいと思うだろう。 でも私は最低1年は頑張ると決めたのだ。1人でも来てといってくれる人がいるから。

去年英語を受け持った子の中には『なんで私らと一緒に上がってくれへんかったん』と少数だが、文句を言ってくれる子もいる。

次は担任か?と聞く生徒に「まだわからんなー」と言うと、こっちの気持ちを見透かしたように『先生は担任せなあかんで』なんてうれしいことを言ってくれる子もいる。


だから、辛くてしょうがないけど、頑張るのだ。少なくても、もしかして同情とかお世辞であるかもしれなくても、1人でもいるから、そういう子が。

でもこれは正直、生活が掛からなければ耐えることができなかっただろう。

何がいちばん辛いって、仕事をほとんどさせてもらえないことと、それでも他の人と同じように給料がもらえる心苦しさ。

でもそうは言っても生活もあるから、きれいごとばっか並べてもいられないのも現実。



もう私は終わりなんだなと思った。
今度の人事で、教師としては再起不能という烙印を押された気がした。
悔しかった。
情けなかった。。
辛かった。


任せてもらえるものが少ない中で何をどう頑張れば、周囲に認められるのか知りたかった。


私、ここにいる意味、ある?                  PART2(後日UP予定)に続く。

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