Think&Said to Myself
日々の日記と思いをミク●ィより赤裸々に(笑)綴りますw
- 2025.03.13
[PR]
- 2009.10.04
再生へのスタートライン
- 2009.09.27
微かに見えた光
- 2009.09.21
If I Was Your Child...
- 2009.09.13
らせん
- 2009.08.17
complicated
- 2009.07.27
クランケ~月の心の裏側~
- 2009.04.28
桜の花粉
- 2009.04.07
食いしばったこころ
- 2009.02.07
曖昧な微笑の裏側
- 2009.01.21
これから
再生へのスタートライン

もう初めて今の病院のドアを跨いでから、3年が過ぎようとしている。ちょうど産休明けで担当してくれたN先生の子どもも3歳。なんだか一緒に成長しているようで勝手に親近感が湧く

今。N先生ともすっかり信頼関係が出来上がり、お互い色々な話をするようになった。
今日はお互い、子どものグチ。
私は聞き分けがなくなってきた生徒たちの。
先生のほうは、そろそろ第一次反抗期に入ろうかというお子様の。
「もう、ほんまに今週はしんどっくてねー、月曜から金曜の夜を待ちわびてたんですよ

爆笑するP.T.

「昨日は『もう我慢できひん』と思ってビールかっ食らいました

『めぐさん飲めるんやねー』
「でも最近疲れてるからなんですかね・・・まわるのが早くって。頭はしっかりしてるのにね、足元はふらふらになっちゃうんですよ

本性もたまに垣間見せるようになり・笑
『25過ぎたら弱くなるよー

まだ25じゃないですーなんて話もしながら、時折超まぢめにCPの話もする。
今日は最近思い悩んでいることを言ってみた。
「生徒がね、私に対して何か言ってきたときにどこまで私が注意していいものなんか・・・っていうのんで、最近ずっと思ってて・・・あんまがみがみ言っても客観的にあかんというより、私が言われて腹立ってるだけって感じに見えるじゃないですか」
生徒も子どもなりによく理解していて、たとえどんなに私に腹を立てようが、わざとぶつかるような姑息なまねはしない。でも、ここのところ言葉によるものが目立っていた。
それほど目くじらを立てるほどの暴言でもないけれど、そういうのには慣れているといえど、それでもやはり傷つくものだった。
「この間もリレーの選抜メンバーが決まらなくて、生徒とモメたんですよ。そん時にある子がね『どうせ先生らリレーとか出たことないからウチらの気持ちがわからへんねん』って言われて、思わず『(リレーに出たこと)あるわ!!』ってムキになってしまって・・・器ちっさいなぁ

本当はリレーも運動会や体育祭も毎年出てたと言うと、その子が「どうやって出るねん」みたいな人を馬鹿にした厭らしい顔で笑ったことで、私の心はさらにえぐられたのだが、相手は子ども。そんな内心を悟られないようにした。
誰もいなくなった教室に私の悲しみが場違いにぷかぷかと浮いていた。
掃除が終わったばかりのきれいな黒板を力を入れて消した。それも飽きるとチョーク受けの白墨を馬鹿みたいにきっちり拭いた。そうでもしなければ気が紛れそうになかった。そうでもしても気は紛れなかったが。
『教師と生徒じゃなくて、ひとりの人間と人間って考えたら、別にムキになっても怒ってもいいんじゃないかなぁ。こんなん言われたら傷つくねんって教えてあげた方がいいと思うのよー。きっとわからへんのやろうし』
ふむむ

『私も子どもに怒ってばっかりになっちゃっててね~、保育士さんに言ったら、『人間だから怒ってる姿を見せたっていいのよ、そうやって親子関係を築いていくんだから四六時中良いお母さんじゃなくていい』て言われて楽になったわー。めぐさんも良い教師であろうとしなくていいんじゃないかな』
ふむふむ


「リレーの件だって、私からしてみれば『お前ら走れるのに贅沢な

『言ってやりゃいいやん』
「そんなん、私の都合じゃないっすか。でも、ほんま良いもの持ってるのに、それを活かそうとせえへんのはもったいないですよね」
自分が当たり前に持っている健康の尊さを伝えられない、歯痒さ。
「なんかね、当たり前にできるような簡単な人の気持ちや痛みを察することができなくなってる子が多いと思うんです。私の話も全然入ってかないし。『なんか言ってはるわ』みたいな感じで」
『それ子どもの担任の先生も言ってたわ。3歳や4歳からでも人の気持ちを推し量る力がない子が多いって。だからね、『毎日1度は抱きしめて大好きって言ってあげてください』って言われるんやけど、(そんなケツの痒いことできるか!!)ってなかなかね・・・』
先生もたまに本性覗かしはる

どうやらなんだか似ているらしい。このP.T.とクランケ。笑
「ビリになるのが嫌やって抜かすからね、『ビリの特権は全員の背中が見えることやねん!そんなんビリだけや』言うたら『だから?』って流されましたよ。」
『めぐさんおもろいなぁ』
「全員の頑張ってる背中を見れるのはビリだけやのにねぇ。考えようですよ。自分の背中は絶対見れへん。でも頑張ってる姿を誰かが絶対見てるし。そういうの判ってもらえないんでしょーかね・・・」
もどかしさは募るばっかし。ほんま無力。。
さて、この日も癒し系P.T.はといえばプロ意識200%で親御さんに丁寧に自宅で出来るリハビリを、いつもののほほんとした口調ではなく、働きマンモードに入ったピリっ、パシっ

私はといえば、勿論その表情や話し方に癒されはするものの、少し自分の想いに距離を置けるようになってきた。
当たり前の話だが、真剣に今起きていること、今後のことを一緒に悩んでくれるのはどのクランケに対しても一律に平等なのだ。
彼の私を見る目はひとりの人間として以前にひとりのクランケ。
私のリハビリ後の歩き方を観察する眼なんか、まさにそうだ。
期待してもだめというわかりきった事実が具体性を伴って心にすとんと落ちていく。
まだ少しフクザツだけれど、前みたいに焦がれるようにそのやさしさを求める焦燥感はだいぶ減ってなくなりそうである。
もしまた、製外の医師に会ったときみたいに自分のために真剣に意見されたら、どうせまた心はぐちゃぐちゃになるのだろうけど。。
その前に、誰か別の人にぐちゃぐちゃにかき回してもらえば問題ないかな・笑
少し前のログで悪化の一途を辿るだけなのにどうしてそんなにプロ意識を保てるのか。その原動力は何なのかと書いたと思うが、最近問うたわけではないけれど、少しその原動力がわかった気がする。
少し前までの私は、来るべき悪化に備えているという感じだった。
いかに心静かにその時を迎えるかということに全焦点が当たっていたのだ。
けれど。ここ数週間で確実に自分の中で何かが変わった。再び闘う気になったのだ。
それはP.T.の師匠であるK先生に教わった自主リハが効いているという事実にも後押しされているが、どのクランケにも言える事がひとつある。
病気や障がいの程度がどうであれ、それが悪くなるものであれ、その事実は変えられなくても、今日を、明日を生きる姿勢というのはその人次第でかえられる。
嘆いて自分は不幸だと思いながら、涙に咽び生きるのか。
それとも微かな日常の喜びを掴み取る努力をしながら、笑顔を絶やさずに生きるのか。
もちろん、前者をまったく知らないのもなかなかないこと。
きっと想像だにしない苦しみに直面したとき、それを即座に受け容れられる人間もそういない。
でも、前向きに生きようとしない人間にチャンスや運は巡ってこない。
嘆いている人がそういうものを掴むときだって、このままじゃいけないと思ってからだと思うのだ。
待っている運命がどれほど酷でも、前向きに生きるということは誰の上にも平等にありえるもので、唯一その身体能力の差に左右されず手にすることが出来るもの。
ならば、少しでも前向きに生きられるようサポートするのもP.T.の大事な役目

昨日まで嘆いていた人が、今日しっかりと明日を見据えられるようになったなら。
たとえ体は動けなくなろうとも、P.T.は無力じゃない。
だからどんなクランケにもあれだけ真正面から向き合えるのだろうな。
勿論P.T.たちから直接聞いたわけではないから私の推測でしかないけれど、でもきっとそうだと思うのだ。
私も昔はどれだけ自主リハを勧められても面倒くささが先行して、なかなか実行しなかった。
でも今回、効果が証明されたのも手伝って三日坊主にならずに済んでいる。
私が維持しようと頑張れば、きっとP.T.の心にも何か変化がもたらされるだろうと信じている。
それで相互にプラスになれば、それはスゴイ事だ

最近担当P.T.はにわかに気合いが入っていて、今回も予定の時間をオーバーしてクランケが私だけになってもリハビリをしてくれた。
その期待に私も応えなきゃ。
同じ悪くなるという結果が、たとえ変わらなくても後々振り返ったとき指をくわえてみているだけだったという結果は避けたい。
いつも癒し系P.T.が私には「お疲れ様」と言わず「こちらこそありがとうございました」と言うのは・・・そしてこれからもそう言ってもらえるのかは私の姿勢に掛かっている。
私もただクランケとしてされるがままになるだけでなく、周りに何かプラスの影響を残せる人で在りたい。
微かに見えた光

先週の怪力師匠(笑)によるリハビリの後、言われた自主リハをほぼ毎日続けた。
まず、座って待っていた私に担当のN先生が「座ったときの姿勢の歪みがいつもより少ない」と言った。
自主リハの効果なのだろうか。
いつものように関節可動域を見る。N先生が目を丸くした。
「すごぉ~い


これには私も驚いた。
先生が言う。
「私もあれがあんなに効くとは思ってなくて今まですすめてなかったんですけどね、K先生(師匠)に言われてやってもらったら、たった数分で足がゆるんでいきはるからね、びっくりして


「今までは筋肉がすごくかたくて、それをほぐすのだけで訓練が終わってたんですけど、家での訓練である程度筋肉がゆるんでる状態をキープできたら、それに費やす時間を減らして他の訓練をすることもできるから、是非続けてみて」
自分でやると、どうしても自分の体に負荷をかけにくいから効いているのかどうか不安だったが、ちょっとでも確実に効果は出てきているらしい。
専門家が驚くのだから、間違いないのだろう。
いつまで教師ができるのか。今までそればかりに捉われていたけれど少し先が見据えられそうな気がした。
「あのリハビリの後ね~このへんが次の日になっても痛くってー。連休明けのHRで思わずネタにしましたよ

P.T.爆笑w
「確かに、「う」って言ってるーっと思ったけど、アレって痛いの??」
・・・え?自分らのやってることが痛いことなんやって知らないの?
思わず心がぽかんと口を開けた。わからないんだ・・・。
すぐ気を取り直し、笑顔を作る。
「めーーーっちゃ痛いですよ

へぇぇーーーっと感心するP.T.

わかっていると思っていたけど。。。
少し心の風穴が音をたてた。
P.T.同士で患者役になり合ったりもして練習することもあるようだから、てっきりどんな感覚がするのか知っているものと思っていた。勿論、師匠の力の入れ方がものすごかったというのもあるが、あの表情を見れば痛みがする、くらいのことはわかるだろう。
それとも皆、師匠の手元や私の変化を追うのに夢中で、私の表情になど気を配る余裕はなかったのだろうか。
ふと、思った。
癒し系P.T.ならどうだろう。わかっていただろうか。目で室内を追うが姿はない。今週は欠勤日のようだった。
内心、私の心が肩を落とすのに気がついて、また嫌悪感が走る。
恋愛感情ではないと知っているでしょう。
そんな思いをいだいてもダメとわかっているでしょう。
先生には『理解者』でいてほしいだけ。それ以上ではない。
わかっているのに、何故こんなに落胆するのよ。
姿がないというだけで。。
私は常日頃、医療従事者はもっとクランケの痛みを汲み取るべきなんじゃないかと思う。
もちろん自身が健康であれば、なかなか病気や障がいに苦しむ人の気持ちに共感しにくいだろう。
でも最大限、その気持ちを想像する、想像しようとする・・そういう姿勢は持ち続けて欲しいと思うのだ。
どんな時に不安を感じ、どんな時に絶望し、どんな時に痛みを感じ、どんな思いがするのか。
どんな瞬間に喜びや嬉しさを感じるのか。
そういうことに敏感であってほしいのだ。
いちいち一人ひとりのクランケに入れ込んでいては自身が潰れてしまう・・・そんな側面もあるだろうからどこで折り合いを付けるのかが難しいけれど・・・

今までそんなに大勢のP.T.と出会ってきたわけではないから、そういうことに自分自身も鈍感だったけれど、それを考えるようになったのは大学2回生のときだ。
はじめ、地元で受けていたのと同じボバース法というリハビリが受けられる施設ということで、I市にあるリハビリセンターを紹介されていた。
言われるがまま、そこの戸を叩いたのだが、そこで応対をしてくれた若いP.T.は、
「ここまで電車で来たのぉ~

当時、私は自分のCPに対する知識も、リハビリ(理学療法)にはボイターとボバースという二種類があることさえ知らなかった。
出てきた院長に、
「地元でどっちのリハビリをしてたかさえ知らんの?話にならんな

土地勘のない中、雨もしとしと降る中、わざわざ乗りなれない路線とタクシーを乗り継いで来た結果がこれだった。。
見捨てられるのだ、と思った。冬の寒さが心細さに拍車をかけた。
帰りのタクシーが来るまでの間、その病院に電話をかけてもらい、ある程度の経緯を説明する。
おそらく声の感じから事務の人だったと思うが、声の質が似ているので事務か癒し系P.T.かは今となっては判断がつかない。
『大丈夫ですよ

すごく親身になって聞いてくれたのだ。それが今の病院との出会い。すごく安心したのを覚えている。
まさに捨てる神あれば拾う神ありだ。
そしてボイター法との出会いでもあった。
「自分の受けてきたリハビリの説明さえ出来ない。話にならない」といわれたのには余程カチンと来て悔しくて、その日から、紹介された今の病院に行くまでの間、地元のP.T.に色々尋ねたり、ネットで検索したり、紀伊國屋書店に赴いては、素人がかじれる限りの医学書を読み漁った(立ち読み

私がブログで紹介しているようなことが書けるようになったのもこれがキッカケ。
それでもまだまだわからない事が多い私が、相手からしてみればしょうもない質問をしても快く答えてくれる。
そういう病院だった。
ついこの間、Y先生に「はじめは●●(病院名)を紹介されていたが、保険の関係で断られた」と概要をはしょりにはしょりまくって話したら、
「え?あそこって、そんなんあったっけ??聞いたことないで。ここと同じ民間やから、負担率もそない変わらんし。。・・・・なんでやろな?おかしいなー・・・」
絶対保険を言い訳にしたたらいまわしだ、と確証したけど、結果的に、I市の病院からたらい回されてよかったかな、と思う

きっとそこにいたなら、将来への不安も口にできなかったろうし、相談をすることさえなかっただろう。
私が就職と共に家から近いところにリハビリ先を変えなかったのも、表向きの理由は「近いところに受け入れる空きがない」だが、本当は「理解してくれるP.T.がいる」のと「S市が好きだから」である

たとえ家から5分のところでも、自分を理解してくれないP.T.のいるような場所なら、行きたくない。
それが本音。
技術ももちろん大事だけれど、クランケの心に寄り添える医療従事者であることはもっと大事。
ブチ当たった壁に、一緒にどうしたらいいのか考えてくれる。
クランケの立場になってものを考えてくれる。
日々立ちはだかる様々な辛さに時に一緒に悲しみ、時に笑い飛ばして何でもないことにしてくれる。
そういう信頼できるP,T,がいる。交通費が掛かろうが遠かろうが、それが最優先

私のように何十年もリハビリを継続しないといけない者ならなおさら。
1年半ぶりに浴槽をまたげるようになったのも、報告したらすごく喜んでくれたし

自分の力で悪化を少しでも抑えることが出来、それを喜んでくれるP.T.がいる。
私の先に少し光が見えた。
If I Was Your Child...
最近、少しずつ自己開示ができるようになってきてミク●イでも多少赤裸々な心情も吐露できるようになってきた。
でも、このブログのテーマは『モア赤裸々ザンミク●イ』でなのだ。そうでなければ意味がない
というわけで、今日もセキララに行きます
日曜日。P.T.たちの研修会に担当N先生のクランケ代表として借り出されためぐさん。
いつものように最寄り駅を降りて、病院への近道である遊歩道を歩く。
大阪市がすぐ近くにあるというのに、遊歩道に一歩入ると自然がたくさん。自転車より大きな乗り物は進入禁止になっているので、とても静かだ。
さしずめS市のセントラルパークと言ったところか。
尤もS市最大のセントラルパークは我が母校の大学のキャンパスだと思うけれど構内にリスとか放し飼いにすれば楽しいのになw 車に轢かれちゃうかな・・・
遊歩道を抜けて、少し広い道に出ると目の前に病院がある。P.T.室の窓は道路に面しているが、レースカーテンでもほとんど中が見えることはない。
前を通りかかり、エントランスへと向かうとき、中から凄まじい赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
いつも誰かしら子どもが泣いているものの、外に漏れるほどの大声で泣く子はほとんどいない。
時間的に私の前のクランケらしいが、余程のようである。
エントランスに一歩足を踏み入れ、靴を脱ぎ、フロア内に入ると更に激しくなる赤ちゃんの泣き声
尋常じゃない泣き方・・・一体何が起こってるんだろう??
23歳、身構える
着替えを済ませ、P.T.室に行くに連れ、激しさを増す泣き声。私が室内に入ったとき赤ちゃんはまだ泣いていた。
が、もう訓練が終わってしまったあとのようだ。なのに、まだ泣いている。
(何?そんなにしんどかったの??)
赤ちゃんに無言で問いかける。。
癒し系Y先生はこの日もマイナスイオンなんだか心の赤外線だかを全身から放出させまくっていた。
・・・あぁ、
なんでこんなにほっとするんだろう
心の芯をじわっとあっためるみたいな・・・。ハロゲンヒーターみたいな人だな笑
そんな癒し系赤外線オーラからは想像できない真剣で鋭い眼差しで、インストラクターの先生に熱心に意見を求めたり、やり方を聞いたりしている。
・・・あ、誰に対してもそうなんだよな。。当たり前だけど。。。
顔を見て、数秒もしないうちに心臓の内側を細くきゅっとつねられたような思いが走る。
でも、それでいいのだ。クランケによって対応を変えるP.T.なんて最悪だから。
そうこうしているうちに私の時間が来た。
担当のN先生が私の氏名や年齢、職業、現在に至るまでの経過、P.T.をする上で困っていることとかを説明していく。
『あらぁ~中学校なんて一番大変じゃない。ハードだし、生意気だし』とインストラクターのK先生・笑
ハードも生意気も当たってるんだけれど、個人的に一番大変なのは小学校の先生だと思う。
私からも説明を求められ、困っていることを話す。
「仕事柄、板書をするんですが首と腰が痛くって。整列して座っている生徒の間を縫って歩くこともできないから、私語をしてるのがわかってても注意しにいけないのがもう悔しくって仕方ないんですよ」
P.T.の間から和やかな笑いが漏れる。
「色々負担も多いし、できないこともあるし、これからのことを考えるとね・・・。中間管理職なんかは『来年から担任を外そうか』って言ってきたり、『教諭という職にこだわらんでも、府の職員として生きる道は他にもある』とか言わはるし・・・」
そこまで言うと、P.T.の間から「えぇー・・」と言う声や苦笑が漏れる。。
『そんなの聞かなくていいよ』とK先生(インストラクター)『聞いちゃダメ聞いちゃダメ』
「身体的な理由で担任を外されたら、きっと一生担任をもてないじゃないですか」
『そうね』
「そんなん絶対に嫌やと思って。」
『絶対嫌や言うたり』
「日頃はしんどいことばっかりで、『結婚したら辞めよう』とか『子ども産んだら辞めよう』とか考えますけどね、でも自分は結局辞めないと思います。大変やけど、担任っておもしろいですよ。教師で在るなら担任持ちたい」
自分で言った言葉に自分が驚いた。私、こんな事考えてたんだ・・・・自分さえまだ知らないところにあった思考だった。
そう、日頃担任でなければどんなに楽かと思うけれど、でも楽しいのだ。きっと副担より数千倍は
一通りの説明が終わって、まず関節の可動域を測る。この日は特に悪かった。
次に仰向けに寝て、股関節や骨盤、脊柱のゆがみを見る(見られる)。
総勢9名に自分の体をまじまじ見られるのは居心地のいいものではない
次に歩行状態。
で、『さぁ、止まって。』
よたよたよた。
『止まんなさい』
よたよた。。
「無理です・・」
『止まるの』
「止まれません」
このやりとりがおかしいのか、数人のP.T.がくすくす笑っている
『この人、立位保持できないじゃない』
そうだよん。。
さらに胸骨やお腹をぐりんごりんと触り、『うわぁ硬っ』
『これでずっと半年、教職のお仕事してたのこれじゃぁ、めっちゃくちゃしんどいわ。はよ何とかしたげんと
ちょっと!!!(と、担当の方を見、)なんでどうにかしてあげないのよ??これじゃあの人しんどいじゃない』
「頑張ってるんですけど・・・」と苦笑する担当のN先生。
『きちんと職にも就いてて、1人暮らし。これじゃもう自主訓練してもらうしかないやりなさい
』
まるで肝っ玉母ちゃん。。オカンキャラ。。まぁ、還暦手前の先生だから私生活でも誰かのオカンなのだろうけど。
で、まず自主訓練の仕方を教わったんだけれど、一人でやってるとアホらしいのだ、コレが。。
「なんだかアホみたいじゃないですか、客観的に見ると」
『客観的に見なきゃいいじゃない』と一蹴された笑
でも。
『さ、立って歩いてみて』
すたすた。。
『どう?』
「歩きやすいです」
『ねっ』
さっきと姿勢変わってるはずよ、とP.T.たちに確認させるK先生。自分では何の変化も感じなかったのだが、P.T.の間から『おぉ』とか『あぁー・・・』とか感嘆の声が一斉に漏れた。
キツネにつままれた気分って、きっとこういう気分なのだ。
何か知らないけれど、効果はあるらしいアホらしいけど、やってみるか
客観的に見ずに
笑
次にいよいよ担当のP.T.がいつものように訓練を始めるのだが、いちいち師匠の顔色を窺っているのが可笑しかった。
誰にでも怖いお師匠の1人2人いるものだな
しかも始めて間もなくストップが掛かる。
ダメだしの嵐相手の人権を配慮するとかそんな気は毛頭ないらしい。
ぼろくそに言う。遠慮なし。。ずっけずけのけちょんけちょん。
私がP.T.の立場なら終わったら思いっきり悪態吐くか泣いてるに違いない・笑
そして師匠に交替。
が、ここからが。。。大変だった。。
『いい?よーく見とくのよ』と周りのP.T.に告げるや否や、渾身の力を私の中に込めたのである。
「ぅ゛・・・」
「ぃ゛」
「っく・・・」
「げっほげほ」(殴られた直後みたいな感じ)
「ん゛ー」
構えていて、これだけの唸り声。何も予想だにしていないところに同じだけの力を加えられたら、きっと悲鳴をあげていた。
このリハビリって、こんな痛いものだったっけ??
若い女性のP.T.の間からは「かわいそー」と言う声が聞こえ、他は苦笑を漏らす。きっと痛みを感じる本人以上の痛みを周りが想像してしまうからだろう。
でも「かわいそー」は何か違うと思う。。
(このオバハン、どっからこんな怪力出んねん・・・)笑
とても還暦前とは思えない。効果のある治療とは徹底的に我が身をいじめぬかなければならないものらしい。
他のP.T.も同じようにやったけれど、若い女性の先生は皆一様に「ごめんなごめんな」と言う。
なんで謝るの??
あなたたちは、私をよくするためにやってくれているんでしょう。だったらあなたも痛みを負わせることに耐えねばならないし、謝る必要もない。
「ごめんな」は気休めでしかない。誰も好きで痛みを与えるわけではないと、こっちも判っているから謝る必要などないのである。「ごめんな」は自分自身への慰め。
こんな冷めたクランケ、いらんだろうな苦笑
『ちょっとY君あんたもやんなさいよ』(完璧オカンモード・・・)
今までY先生にはうつ伏せの姿勢でしか、リハビリをしてもらったことがなく自分が仰向けのパターンは初めてだった。
先生の顔を至近距離で見、短く伸ばした髭に白いものが混じっているのに気づく。
今まで38歳くらいかと思っていたけれど、実際はもう4、5歳上のようだ。それかそうでなければ苦労している38歳なのだろう・笑
(おっちゃんやん・・・)
今まで、俳優などでは40代、50代のオジサマが好みだったけれど、遂に現実にもおじさんに惚れようとは・・・
私もバカだ・・・いや、38だったとしても十分おじさんだが
たとえこの人が未婚だったとしても、ダメじゃん
『めぐさんごめんな。ちょっとこの辺押さえんで』
押さえる場所が胸のすぐ下の胸骨だったから、先生が断りを入れる。 この先生、そういうとこをしっかりわきまえている。
男性P.T.の中には、思春期の女の子にでも「子どもだし」とか、「リハビリなんだから当然」とへんな履き違えをして、何の断りもなくわき腹や腰を触る奴もいる。そりゃもう付き合いが長くて、次にどんなリハビリをするのかわかっている間柄ならそれでもいいかもしれないが、そうでなければちょっとデリカシーがなさすぎるか職権乱用だろう。
「はい」と返事するや否や、その声はうめき声に変わった。例のごとく、眉間には皺がより、唇を噛む。。
耐えようとぎゅっと瞑った目を少し開けたとき、Y先生の顔を見た。表情ひとつ変えていない。他の人のように申し訳なさそうな顔もしないし、謝りもしない。
やっぱ、プロだそのプロ根性を目の当たりにし、鳥肌が立ちそうになった。
やっぱりこの人、めっちゃ尊敬する
痛みから少しでも逃れようと、私の頸が動く。
『押さえて!!』と肝っ玉母ちゃん(笑)の声が飛ぶ。
Y先生の胸骨を押さえるのと反対の手が私の顎に伸び、あっという間に私の顔と頸は難なく固定されてしまった。
痛みが増す。
「ぐ・・・ぅ・・」
ちっちゃくキレた小熊みたいな声が漏れてしまう。その力に、普段はのほほんとした佇まいの先生が男性であるということをハッキリ認識させられる。
めっちゃくちゃ苦痛を味わわされているのに、安心するのはナゼだろう。
胸骨の上に置かれた手からも、顎に置かれた手からもじんわりと体温が伝わる。
そういえば、担当P.T.の手はいつも冷たい。。
乾いていて、温かい手。たっぷり陽を浴びた干草のようだ、と思った。
1分が1時間にも感じられる苦痛の連続。終わったとき、いつも「はぁーーー」と深い声にならない息が漏れる。
しかし。。
「あー、俺もしんどいわ、これ」 とY先生。確かにしんどそう。
じゃぁ、同じことをして、しれっとしているあの師匠はいったい・・・男性でさえしんどいというリハビリをして、あっけらかんとしている師匠は・・・やっぱり怪力笑
多分力の使い方が違うのかな・・・(と言う事にしておこう)
その後も師匠にいじめていじめていじめぬかれ、こんなにうめき声をあげたのは初めてだと思う。
2、3分が1タームで、一度力を抜かれるのだが、はぁと息をついて、顔を上げると、一番近くにY先生が居て、その顔には穏やかな表情が宿っている。
その瞬間の安堵感と言ったら、言葉で表せない。
コンパスを失くした山道で、人家の明かりを見つけたときの感覚に似ているのかも。
・・・なんで。
涙が出てきそう。
そんな安心感、安堵感、その辺にばらまいてくれるな。受け取ってしまう。欲しくなる。
痛みから解放され、顔を上げきるその前に目線を少しあげると、そこには少し日焼けの残る手が見える。
なんでなんでなんで。。
私の心はこんなにも安心するのだ。。。
もうもはや、髪の毛が乱れていないかとか化粧が崩れていないかといったことにまで(痛すぎて)頭が回らない。
それでも顔を上げてしまう。その瞬間の最上級の『ほっ』が欲しくて。
すぐ傍で見ていてくれたのだと思ったら、安堵感がもう洪水状態である。
頭のほうで見ていないで、足元で様子を見ているときもある。
そんな時、顔をあげてもすぐに見つからないと、ダンボールの中の子犬のような気分が襲う。
・・・・・・。。
先生のバカ。
否。
他でもない私がバカなのだ。。
先生は私がごっつい尊敬する人。
それだけでなければいけない。
それ以上であってはいけない。
絶対。。
判っている。
一番近くに居るのは、
私がクランケだから。
そうでなければ、
近くには居ない。
当たり前。仕事だから。
仕事に自分を賭ける人だから。
安堵感の次には決まって切なさが込み上げる。
なんて気持ちを、いだいてしまったんだろう。もう嫌。
2時間師匠に苛め抜かれた甲斐あって、その後は体が超軽い足もすいっすい
すげー!!!
いきなり立ち上がった拍子によろける。
『大丈夫か?いつもと伸び具合が違うから気ぃつけてよ』
「ゃ、起立性低血圧なんです・・・」
爆笑された・笑 起立性低血圧なのは本当なんだけど。。
女性のP.T.に「めぐさん、よれよれやねー帰れる?」
そりゃ、怪力おばさんにここまで苛め抜かれりゃ、よれよれにもなるわさ。顔が・笑
定年まで教師を続けられるのかと言う私の問いに、自主訓練に今後の教師人生が掛かってる、と言われた。
『脳性まひは悪くなって当然。仕方ないって考えがP.T.や患者の間に刷り込まれてるからいけないの。確かに悪くなっていくかもしれない。でも自主訓練するだけであれだけ変わるのよ。1日でも長くいい状態を保つことは出来るんだから。たとえ悪くなるとしても、それを続けていれば悪くなり方が違う。悪くなって当然なんて思ったらダメ』
今までずっと思ってきた、考えてきた。
失うものを飲み込んで受け容れれば、ないものねだりの苦しみは減る。
でも、今以上は絶対に生まれない。
失うことに抗えば、低い確率で失うものが減るかもしれない。
でもそれでも失うものを前にして、心、くるしすぎる。。
その狭間を彷徨っていた思考はひとつの答えを見つけた。
自分が精一杯やった結果、失うものは受け容れろ。
でもそれまでは常に抗え。。
これからの闘いのスタンス。Turn Out!!
『周りが色々言ってくるのには耳を貸さない、聞かない。他人の心がわからないろくでもない奴もいるし、自分が若かった頃を忘れる人間もたくさんいる。そういう奴らの言う事は毅然として撥ね付けなさい。誰の前でもとは言わない。そういう奴の前でだけは何があっても撥ね付けられる、そんな強さは持ちなさい』
決して優しいことを言われているわけじゃない。
でも、何故だろう。満たされる。
優しい言葉の中に救いがあるわけでも、救いの言葉自体があるわけでもない。
言葉の中に自分が救いを見出すか否かだ。
それに気がついた。
師匠の言葉を聴きながら、やっぱりY先生の視線は穏やかだった。
きっと子どもを見る眼も、こんな眼なんだろう。。
I think that if I was your child, I could receive all of your tenderly glance.
Damn.
What a foolish I am!!!
That's no way.
Absolutely.....
純粋に尊敬だけを残せるのは、いつの日か。。
らせん
リハビリ用のバッグを新調

ブラックかダークブラウンで悩んで、結局ダークブラウンにw
パープルでもよかったけれど、裏地がもっとヴィヴィッドなカラーやったら・・・と言うところ。。
ポッケも3室あるし、マチ幅もデカいからリハビリにいるものすべて入れても余裕がありそう

今まではオニツカタイガーのデカボストンを使ってたのだが、型がしっかりしすぎていてちょっとしか物を入れなくても場所を取る。横に長いので電車に乗っていても自分の両膝からはみ出るので混んでいるときなどは恐縮していた。
何よりバッグそのものの重量も重たくて、それも行き帰りの負担になっていたから良い物が見つかったら買い換えようと思いつつ・・・3年。
送られてきたひいきの某通販会社のカタログ。
その中の1ページで私の目と手が止まった。
これ、いい

縦横の長さも理想的だし、何より大きなポケット3室。いつもリハビリ用のタオルやらジャージやらに混じって、その中のパスケースやら財布やらをイザというときにごそごそやっている私にピッタリ

しかもサイドにはペットボトルを立てて収納できるスペースが付いている


まさに私のリハビリ用バッグ

オニツカのバッグはスポーティさを前面に押し出してる感あるけど(もちろんスポーツブランドなのだから当たり前だけれど)これは持ち手のところなんかにリボンもついていてかわいい

よくリハビリの帰りに誰かとゴハンとか飲みとかいうこともあるけれど、その時に1人デカデカとゴツいカバンを持っていくのが密かにあまりスキじゃなかったので、これからはそんなことがあっても堂々と持っていけそう

私がかわいいと思うものは他の人も同感なのか、人気のようで在庫は「入荷待ち」

次回のリハビリに間に合うかな??ww
complicated
自分自身の心のよわい部分を曝け出すというのは、多分に勇気がいる行為である。
規模は小さいながら、それをついこの間してみた。
普段はここにしか書かないような事を、友達がたくさん閲覧するSNSで書いてみたのだ。このブログのように主観的文体は排除しようと思ったが、なかなかうまく行かなかった。それでも曝け出すという行動そのものはうまく行ったように思う。
担当のP.T.から宣告されてしまったのだ。
『25歳を過ぎれば、日々が闘いになる』と。
初めは実感が伴わなかったが、言葉の重みを知った瞬間、叫びたくなった。
何をかはわからない。言葉にならない思い。
自分は常に残酷に変わりゆく運命を受け入れていると周りの人に思われたかった。
本当はそうではないけれど、でもその方が楽だから。
心配を掛けなくて済む。変に取り繕う必要もなくなる。
憐れみに満ちた眼でみられることもない。
でも、「本当はそうではない」けれど「そうである」ように見せるというのは、根本で取り繕っているのと同じなのだ。
自分の弱い部分を曝け出す勇気を持つ云々以前に、ただもう吐き出したくて仕方ないと言うのもあったかもしれない。。
クランケとして甘えたいだけ、と悟ったところで、私の精神状態が変わったわけではない。
顔を見たいと思うのは相変わらずだし、本当はSNSなんかにじゃなく、彼に弱さを曝け出せたらと思う。それ以上のことも・・たとえクランケとしてではあれ望んでしまう。
それが満たされれば満足するのか。
それとも更に彼を必要としてしまうのか。
私にだってまだわからない。
今日はひとり車を飛ばして、地元でお世話になったP.T.に会いに行ってきた。
リハビリセンターには私が小学生の頃、リハビリを受けていた人がまだ来ていて久々の再会となったが・・・
その人のひざから下を見て、愕然とした。
膝から下の筋肉は、歩きづらくなり運動量が減ったせいか脂肪に変わり、歩くたびにぷるぷる揺れている。
足首のくびれは内反足の影響でなくなり、更にそこも太い。
私ももうすでに足首のくびれは目立たなくなってきた。
これから私もああなっちゃうのかな・・・・。
ぼんやり考えたら、ひどく憂鬱になった。
地元のP.T.に宣告されたことを告げても、少し前の担当P.T.同様、言葉を濁す。
やっぱりみんな同じなんだ。クランケの傷つく表情は見たくない。
リハビリ施設に行くと、自分の10年後、20年後に重なる姿をよく目にするから、最近は行くのがあまり乗り気ではない。わかっていても辛いから。
どんな物事も時が過ぎるにつれ解決へ向かうことを私は知っている。
たとえ能力が低下しようが足が変形しようが、時間を経れば必ず飲み込める日が来るだろうし、自分はそうできる人間だと思えるくらいには、私は私を信じている。でも、それは結果論であって、そういう日が来るまでの過程を思ったら、耐えられるのだろうか・・・という不安も残る。
そしてそんなときは、彼の存在を渇望する。
私はクランケという立場を超えてはならない。
でも、クランケという立場に留まるには些か重すぎ、恋愛対象という範疇にいるには少し軽い。
自分でもややこしい感情を抱いたものだな、と思う。
希望を隠された夜は、子どものようにすがりついて、来るべきものへの精一杯の抵抗を叫びたい。
運命を呪いたい朝は、自分を一切取り払って、枯れるほど涙を流したい。
そして泣き疲れた夜は、確かなあたたかさの中で恐怖から護られて眠りに落ちたい。
でも、そこに居る相手が貴方であっては、いけないんですよね・・・・。
何よりも大切にすべきものをもう既に両手に抱えているから。
クランケ~月の心の裏側~
「会いたいなぁ」
思わず漏れた自分の独り言に、自分で驚いた。そのときに連想していた人の顔を反芻して、今度はため息が漏れた。。
私の馬鹿。。。
幸か不幸か、会えない日々がかれこれ一ヶ月続いている。会えないなら会えないで、想いを風化させる絶好のチャンスだと言うのに、私の心はどうしてこうも聞き分けがないんだろう。
でも、普通の恋愛感情とは少し違うのも自分で意識している。
一緒に映画に行ったり、ショッピングしたり・・・いわゆる普通のデートをしたいという願望は彼には抱かない。
でも、触れられたいとは思う。・・・・が、そこに性的な要素はないに等しい。
なんていうか、もっと精神的なもの。精神的なぬくもり。
こんな感情、初めてだからどう扱っていいのかわからない。
触れたいとか、触れられたいとかいう願望は、異性に対してである場合、性的要素を伴わないと多分にややこしい。
まして、ここは日本なのだ。アメリカではない。
それに私の抱いている感情はハグや挨拶といったような軽いノリでもない。
なんていうか、精神的なもの。
結局、考えても考えてもそこに思考が落ち着く。じゃぁ、彼に求める「精神的なもの」っていったい何なんだ。
自分で思考を落ち着かせておいて、この問いを投げかけたら私は落ち着かなくなる。
自分でもうまく言葉で表せない。
もどかしい・・・。
彼を強く意識するときは、決まって自分自身の調子が良くない。
この間は1週間に2度、派手にチャリで転んだ。1度は車道に自分が飛んだ。車が来なかったのが幸いだ。
リハビリに行っているのに、左足のガタも半端ない。
歩くのさえ嫌になる日もある。。
私は彼の、いちクランケ。それも、間接的な。
甘えたいのならクランケの立場から思い切り甘えればいいじゃない。
辛い。
かなしい。
悔しい。
怖い。。
ぶつけたって、跳ね返すひとでも、受け止められないひとでもない。
でも、でも。。
もう既に彼の中で私はそういうキャラではないのだ。きっと。
彼の中の私は、入学式で歯を食いしばっても前を向き続けた私・・・そんな私しか印象にないだろう。
ほんとは泣き虫。
ほんとはよわい。
でも、それを覆い隠し、笑みを浮かべることで、今まで私は自分の周りに人を集めてきたのだ。
私の生きていく手段のひとつ。
下を向いている花に太陽は当たらない。。
でも、そういう私も知ってほしいと思う。そしてそれは、誰にでも判る苦しみではない。
でも彼はカウンセラーではない。
この前も、彼は彼のプロ意識を剥き出しにしていた。
「悪くなってるよ。」
あまり、こういうことを本人を前にして言える人は少ない。
それはクランケを傷つけたくないとかではなく、クランケが傷ついた顔を見て、自分が傷つくのが嫌なのだ。
できれば、そんな役回り、自分じゃない誰かがやってほしいと思うだろう。
それをあえて彼はする。彼はどう考えているのか、私にはわからない。でもクランケの境遇丸ごと、自分が背負う覚悟でなければ出来ないことだ。
クランケの傷と、自分の傷、2人分の傷を抱えて生きなければならない。
飄々としているようで、その背中には独特の存在感があるのもきっとそのせいかもしれない。
この業界は、病院と違って病気が治って退院していく・・・というゴールではない。
やれどもやれども、どうにかして現状を維持するのが精一杯。
変化はあっても微々たるもの。
特に18歳を過ぎれば、その変化は悪い方向へと向かう。
そんな絶対的なカベを前に彼は何を思うのだろう。
無力感を感じたりすることはあるんだろうか。
機会があれば問うてみたい。
あのプロ意識を保つ原動力はいったい何なのか。彼の核を突き動かすものは何なのか。
私がカベを前に往生際悪くあがくのと同じようなことがP.T.にもあるんだろうか。。
彼の心の裏側をのぞきたいと思った。
それがたとえクレーターのような歪さがあっても構わない。
付き合いたいと思うわけでもないし、まして結婚を望んでいるわけでもない。
でも何故か、惹かれる。引力のように。。
月みたいなひと。。
わたしは、わたしがくやしいんです。そんな思いをぶつけたら、貴方は何と言いますか。
やさしくしてくれますか。それとも、きびしく戒めますか。
それとも、いつもみたいにぎこちなく笑うでしょうか。
桜の花粉
家庭訪問の日程を組むのに、頭を悩ませる日々である。
専業主婦というお母さんも減ってきた昨今。「いつでもいい」なんて回答は貴重な存在になりつつあり・・・
何日の何時から何時まで!というのと、兄弟関係、それから住所などの兼ね合いを考えていたら、まるでパズルだ
そんなパズルの合間に、ブログ(なんて書いてる場合でもなかったりするけれど)を書いてみる
教師生活の幕開けは、闘いの幕開けでもあった。
それは職員室の人間関係でも生徒との関係でもなく、自分自身との。。
CPとの闘い。
自分には自分が知らなかっただけで、出来ないことがたくさんある、というのに気づいたのだ。
入学式の「主任の袖がっしり事件()」以来、どこか暗鬱な気分は抜けず、子どもらの前では平然を装う・・・そんな日々が続いていた。
自分に出来ることでも、周りが親切心から過剰に手助けしてくれるのも、ありがたく嬉しい反面、情けなさも募っていた。
・・・・・これくらい、出来るのに・・・
そんな思いにも何度も駆られながら、表では笑顔を作り、「有難うございます」を繰り返した。
そんな日々に少し疲れていたときのこと。校長の呼び出しがかかる。
先輩の先生には「呼び出して・・・悪いことしたんちゃうんやから、「お話」くらいでいいやろ」と笑われたけど・笑
宿泊学習の下見(山登り)のため、上下ジャージという何とも間抜けな格好で校長室に入った私に、校長は
「どや?疲れてないか?」と微笑む。
目の前のソファに座るように促した校長は、開口一番、
「市教委に、『洋式トイレ作る!!』って言うてきた」と切り出した。
急な話で????となっていると、わざわざ私がお手洗いの度に遠い支援学級の教室の中のトイレまで行っていることを支援学級の教諭から聞いたらしい。
校長に呼び出されたのは、それだけでなく、その翌日に話すことになっている自分の障がいについてだった。
まだまだ、自分も周りも余計な気を遣いまくっていた日々を脱却しようと、学年会議で自分の事を話す機会が欲しいと学年主任に申し出たら、いっそ職員会議で言ってという話になり・・・その話は校長にも届いていたのだった。
先に一通り、校長には詳しい話をし、そして最も危惧すべき二次障がいについても触れた。
そして、かねてから思っていたものの、誰にも言わなかったことを初めて口にした。
「私は、私の描く理想の教師像が自分の身体能力で出来なくなったときには、教師を辞めるつもりです。それが何年後なのかはわかりませんが・・・。でも、府教委の方には60まで働いて欲しいと言われ、正直揺れているのですが。。。」
「府教委の誰や?」
「Yさんです」
「Yかぁ。あいつは、俺も知っとる。あいつは俺と入れ替わりに府教委に入った人間でな。・・・そうか、あいつがそんな事を言うたか。あいつなら言いよるわ」
「理想の教師像は、たとえ立てなくなろうが変えたらあかん。変えんでいい方法がないか考えるんや。座って授業したってかまへんやないか」
「あんたが入ってきてくれたんはラッキーやったと思ってる。やっぱり、当事者の言葉には重みがあるからな。Mさん(学年主任)にもな、あんたが入ったことは『マイナスやない、むしろプラスになる』と言うた。」
保護者から何か苦情は来ていないか、と問うと、「そんなモン来てるか」と一蹴され、
「あんたが関わるのは、子どもらや。保護者が何と言おうが、んなもん放っといたらええ。今あんたの中には不安しか前面に出てないけど、絶対あんたにしか出来ん教育があると俺は思うとる。教頭にも『あの子は絶対潰したらあかん』って言うたしな。何十年も先のことを心配するな。今の1日1日を大事にせぇ。俺なんかあと700日(定年まで)しかないんや。ほんまに1日1日を噛み締めてんで。あんたはまだ、あと30数年、教師でいられるんや」
もう、涙腺は崩壊しそうだった。その後、現場でいたころに持った、CPの生徒の話をしてくれた。
「あいつが自殺という道を選んだことが、俺の人生最大の後悔や」
かつて現場で、CPの生徒のクラス担任を3年間、志願した。その子は手が不自由でノートに黒板を写すのも苦労する子だったが、努力を惜しまない子であった。
まだ、体罰がそれほど厳罰化されていなかった時代。校長は、宿題をしてこなかった生徒に対し、「愛のムチ」でお尻を叩くのが習慣だったらしい。
「あるときにな、『宿題やってないモン』って言うたら、そいつが手ぇ挙げるんや。俺、廊下に出す前にそいつにコソっと聞いたんや。『やってないん違って、手うまいこと動かんと出来んかったんちゃうんか』てよ。ほんなら、頷くんや」
「周りの生徒は興味津々や。『先生、アイツも叩くんかな』って。よう見とれと思った。俺は特別扱いは一切せん。思いっきり尻ぶったった。他の子と同じようにな。でも、そいつは嬉しそうに笑いよった。もしかしたら、アイツは、皆が叩かれるんが羨ましかったんかもしれんな・・・。皆と同じことを自分もされたんで、嬉しかったんやろな」
私は頷き、「その気持ち、少し判る気がします」と自分の思いを語った。
学生時代の恩師でゼミの教授・A先生は一番前に座る学生にプリントを配る手伝いをさせるのが習慣だった。私も1回生の頃、一度それを指示されたことはあったが、それ以来、指示されることはなく、4回の頃は、隣に座ったO君にだけ、手伝いの指示をし、私には声を掛けなかった。
勿論、先生の意図はわかる。私が配るのは大変だと思って先生なりの優しさだったのだ。それも充分わかるが、私は先生が信頼する学生ではないのかも・・・と思い悩んだこともある。
校長と話をしている間に、涙腺は決壊した堤防のようになっていた。
校長室を退室する際、「校長先生のような先生のいる学校に赴任できて、ほんまによかったと思います」と告げると、校長はニヤリと笑って、
「礼らまだ早いぞ。そのうち「こんのくそジジイ」と思うことが出てくるかもしらん
」
「いやいやいや・・・」とこちらもニヤリと笑みを返したが、この校長先生の下で働けるのが幸せだというのは紛れもなく本心だった。
職員室に戻る際の涙の言い訳は・・・「桜の花粉が・・・」(すぐバレる・・・)どうせならヒノキの花粉にしといたほうが信憑性はあるんやけどね・笑
今週は昭和の日がある!!休みは嬉しいと休みに焦がれる社会人の、つぶやきログでした
食いしばったこころ
時にその手に似て、しっかりと。
時にその顔に似て、優しく。
すみずみまで確かめたあと、不意に一点に力を入れる。
私の細胞が目を覚ます。私の中の目覚めていない部分。。
何の話って、リハビリの話・笑

オチそれかい・・・って思った方、ごめんなさい・笑
その後の会議で、1年2組の担任が決まった私は、心をあるひとつの不安に支配されていた。
1年生と言えば、入学式。
そして、新入生の担任と言えば・・・・・・・・
絶対に前にずらりと並んで「担任紹介」というのがどこの学校でもある。その間、立っていられるのか。
私は、どういう仕組みでそうなのか知らないが、歩くことよりじっと立っているというのが難しい。特に最近では調子が悪いと、たった数秒自力では立てず、ふらふらとしてしまう。
よたよたしようが、こけようが、私は一向に平気だけど、なんせ舞台は入学式。
子どもも保護者も担任の足が不自由だというだけでまず驚きなのに、そこでよたよたしていたり転んでしまっては「この先生、大丈夫なん?」となるのは想像に難くない。
そんなわけでもう、その日のことを考えると叫びだしたくなるような妙な不安感や重圧が襲う私は、リハビリに行ったときに担当のP.T.にすがるように、「立てるようにしてください」と言ったのだった。
いつも担当のP.T.は女性なのだが、女性のP.T.では力が足りずに出来ない訓練があるらしく、急遽男性のP.T.が応援に入って2時間みっちりリハビリしてくれたのだった。
助っ人に入ったP.T.は手術の話のときにも、熱心に話し合いに参加してくれたあのP.T.である。
「のーん」とした癒し系の表情でやってきたP.T.は「1年生の担任かぁ。大変そう。」と言いながら、私のあちこちに触れていく。
素人目にはまったくわからないが、それだけでどこの筋肉に負担が掛かっていて、どこの筋肉が使われていないのかがわかるらしい。・・・プロ

私の筋肉の特性を把握したP.T.は不意に力を加えていく。使われていない筋肉に刺激を与えるためだ。
傍目から見たら、ただ指一本で押さえているようにしか見えないのだが、押さえられている本人は、体中が押さえつけられるような感覚に陥る。ひどいときは歯を食いしばって耐えねばならない。
小さい子はこの感覚によく泣く。
骨ばった男性特有の手の感触とは対照的に、その触れ方は優しいものだった。
表情そのまんまやねんな・・・なんて思いながら、襲ってくる「はりつけ」的な感覚に耐える。私の体はそれに抗おうと時々意識とは関係なく足が動く。女性P.T.はそれを抑えられないので、それが自然におさまるまで待つのだが、さすがは男性P.T.、その力で難なく抑え込まれてしまった。
意思に反して、その見えない圧力から逃れようと私の体が動くとき、私はしんどい思いをする。あまり心地のよいものではない。
しかし、動かないようにぐっと抑え込まれたのは逆に安心感があった。変に力が入った状態で動かすのを阻止されるからだろう。 「はりつけ感」は抜けないけどね。
掛けている力が筋肉に伝わっていくのが、わかる。
(この人、やっぱりすごい

なかなか、初めてのP.T.で効果が実感できることは少ない。それは相手に自分の体の特性がよくわかっていなかったりするからだろう。しかし、初めてリハビリをしたP.T.にも関わらず、それもリハビリをしている最中に効果が実感できるのだ。
家で出来るリハビリも、今までとは違うものを教わった。こちらの方がひとりでもやりやすいので効果はあるだろう。
今まで詳しくは聞かされてこなかったボイターの原理。それから、私の筋肉の特性などがその男性P.T.の口から語られた。
「食器の乗ったおぼんとかトレーを持って歩きにくいのはココの筋肉に力がうまく入らないから」と背中の肩甲骨の上あたりをぽんぽん、と叩く。
麻痺しているのは足なのに、足だけの問題ではないんだな。。
「肩もばっりばりにこってんな~」
あはは・・・これはみんなに言われる

終わったあと、タオルやらジャージやらを鞄に詰めなおしていると、男性P.T.の声が聞こえてきた。どうやら担当のP.T.と話をしているらしい。
「あの子に中途半端な事は言うたらあかんで。頭はいいから、リハビリもイメージさえ与えてやればきちんとその通りにできるし、自分の体の事も納得して理解したいと思ってる。現状を的確にわかりやすく言うてやるべき。その場しのぎや気休めはあかん」
のほほんとした顔をしたプロフェッショナル

初めて、教師以外の人の生き方や人間性を尊敬した瞬間だった。
普段、挨拶しか交わしたことのない人が、何故ここまで私の性格を見抜いているのだろうか。
「立ちにくいことは周りに言ってみた?」と戻ってきた男性P.T.
「言うたんですけど、なかなか周りは歩くほうが難しいと思うからピンとこないみたいで・・・

「そうよなぁ。立ってるほうが難しいのになかなか理解されへんのよな・・・頑張らんでええよ。生徒に手ぇ繋いどいてもろたっていいし。『ちょう、あんた手ぇ貸してー』って。」
出来なくはないけど、中学校入って初日の子にそれはさせられないわ・笑
帰る頃、来る前よりもかなり良い状態にまで持っていけてることはわかった。しかし、立っている時間は1分と持たない。リハビリにも限界はある。
入学式当日。周りの新任の先生とはまた違った理由で不安な面持ちをしていた私。
学年主任が私のところに来て、「俺、すぐ隣に立つからなんかあったら掴め」と言ってくれたものの、心の中の見えない黒は消えない。。
引率の際、階段を下りるのも遅い私を、先頭のO君とAさんはきちんと私より前には出ずに歩いてくれる。
何も言わないのによく出来た子らやなぁ・・・とぐっと来てしまった。
式は予定通り順調に進み、そして・・・
『1年生の先生方を紹介します』という司会の声が掛かる。舞台前まで歩いたものの、歩みを止めた瞬間、
あかん・・・立たれへん

なんでこんなときに・・・・・・
思わず、舞台前の階段の端を掴んだ。それを見て主任が、「掴まってええから、もっと前出よ」と小声で言う。
私は、学年主任のスーツの袖にしがみついていた。高そうな肌触りのスーツやなぁ・・・なんて考えて気を紛らわそうとしたけれど、やっぱり情けないし、悔しい。。
立ち場所を調整する振りをして一度下を向き、唇を噛んだ。情けない、情けない、情けない。。
でも。。。
今日の主役はあくまで328名の新入生。36名の私のクラスの子どもたち。前を向いてやろうじゃないか。しっかり。
顔を上げた。
目の前には緊張に満ちた面持ちの子どもたちがいた。私の生徒が。
先生、頑張るで

『2組、担任、めぐさん先生です』
主任のスーツの袖を握り締めたまま、一歩前に出、頭を下げた。そこには祈りも込められていた。
こんな私ですが、宜しくお願いします。 些細だが切実な願い。
そのまますべてのクラスの担任と副担の紹介が終わるまで、私は袖を掴んだまま、必死に立っていた。
メガネは掛けていなかったから、後ろで見る保護者がどんな顔をしているのかまではわからない。
正直、その場からいなくなりたかった。
でもたかがこれしき耐えられないようでは、これから先の教師人生が思いやられる。
新入生退場。殊更胸を張って歩いた。こんな事で、背中は丸めない。下は向かない。36名の私の子どもたちはこの背中を1年間、見るんだから。
学活で教科書を配り、連絡事項を告げ、「さようなら」をする。誰もいなくなった教室のみんなの机を整えて、職員室に帰った。主任に礼を言い、自分の椅子に座る。
今日1日が溢れ出てきた。
こんな私が悔しかった。
(CPのくそばか野郎

空虚が広がっただけだった。
曖昧な微笑の裏側
3日、何も聴かずに過ごしたら軽く胃腸の調子が悪くなった。ストレスのせいもあるのかもしれない。
軽いストレス時は音楽を聴くといい解消になるのだが、それも超えると音楽を欲さなくなる。
JOEやBrianの甘い歌声に浸りながら、ぼんやりと物思いに耽っていた。
「今はあの頃とちがって、自分の体の事もわかって(受け容れて)いるでしょう?」
P.T.は無邪気に言う。本当に屈託なく。それに対し、私は曖昧な微笑を浮かべていた。
あなた達にとって、何人もの患者を相手にし、何例という症例を目にし、私のようなものはさほど珍しくないのかもしれない。
でも、私にとっては1回1回直面する症状やそれに相対する時の感情が、初めてのものだ。
あなた達にとっては何百回目かもしれなくても、私には常に1回目だ。
それを呑みこむのが容易いことと、貴女はお思いなのですか。。。
勿論、受け容れた方が、呑み込んだ方が、その過程は苦しいけれど、その後は楽だ。
でも一旦受け容れてしまったら、それ以上の状況は永遠に生まれないんじゃない?
でも、いつまでも受け容れないでいれば、それは自分を追い詰める。
私はどうすればいい?どっちを選べばいい??
抗いたくなったの。神様に逆らってみたくなったの。
だって、私は春から教師なのよ。私の思い描く理想の先生というのは、元気に走っていたいし、常に活発でいたい。
小学校ではないから休み時間の度に校庭や運動場で一緒に遊ぶ・・・なんてことはしないけど、それでも時々はジャージに履き替えた意味が充分あるくらい生徒の輪の中にいたい。
ただ、服を汚さないためのジャージではありたくない。。
届いたばかりのadidasのジャージを眺めていたら、どうしようもなくそんな思いに駆られた。
私は、教師として生きたいから。常に。
手術の説明がP.T.からなされた。
30歳までにオペしないと効果がないらしい。あと7年か。
思ったよりもゴツい器具だった。足の3箇所に穴を開け、(開けられるところを想像したら、怖い)そこに長いボルトをピアスのように貫通させて矯正器具を固定する。
整形外科医は「ニッカボッカ履きゃ・・・」なんて言っていたが、本当にニッカボッカしか履くものがない。
でなけりゃスカート。バギーパンツでさえ縫い目が裂けそうだ。パジャマも一般的なものは無理そう。ワンピース型のネグリジェみたいなものでないと履けそうにない。
考えてみたのだが、下着はどうやって着替えるんだろう?足から通さなきゃ履けないではないか。
小さい子のパンツみたいにゴムで伸縮自在・・・というわけにもいかない。もう、いい大人だ。
普段はともかく、生理中なんて大変極まりなさそうやん・・・などと、現実的な心配事が次々と沸く。
そして冷静に下着の心配なんてしている自分に気づき可笑しくなる。
お風呂は足にラップとか巻いて入る羽目になるんだろうか。足に3箇所も穴が開いた状態では、清潔な風呂でさえ、些細な雑菌が万病の元だ。。
医者は骨さえくっつけば、器具がついたまま仕事に行ってもらっても一向に構わない・・・と言ったが、器具の写真を見ながら、今の私にはこれをつけたまま電車やバスに乗る勇気はないと思った。
でも少しでも長く自力で歩けるなら、手段は選べない。今や私は、多少の代償を負っても、自分の足でできるだけ長く歩きたかった。
教職員人事課のYさんから、2度目の電話があった。
Yさんとは、私が赴任するに当たって配慮すべき事等を面談して話していた。
1、2年前なら自信を持って「できます」「大丈夫です」と言えていた筈の数々。それが今は「今のところ大丈夫です」という心もとない返事しかできない。
悔しい。私は教師で居たいのに。ずっとずっと・・・。
Yさんの「定年まで働いてほしい」という言葉は無条件に心の底から嬉しかった。けれど、私の心にはいつも嬉しさと共に、暗い影が同居している。
影に向かって言ってやりたくなる。
何よ、あんたなんか怖くない。私は子どもらのためにどこまでだって頑張るんだから。
子どもにとっていい先生でいるためなら、何だってするんだから。
あんたなんかに、負けはしないんだから。
負けは、しないんだから。
今の私がいちばん怖いのは、私が教師でいられなくなる日が来ることだ。
そんな日、来ないでほしい。
だって、この仕事は私の生きがいだから。
就活をして、色んな業種、色んな会社の話を聞いた。多少、魅力的だと思う会社もあった。でも、そこで定年まで働くビジョンが見えなかった。きっと、結婚とか出産とか、そんな節目を迎えたら去るんだろう。それが容易に想像がついた。
でも、どんなことがあっても決して辞めたくない。そう思える教師という仕事。
大学に入り、教職の授業の中で憧れでは済まされない話を聞いて、教師を志すのをやめていく同期もいた。そんな中、私の志は濃くなった。
塾のバイトを初め、手のかかる生徒にもそうでない生徒にもいっぱい出逢ったけれど、そんな子らに出会えば出会うほど、ますます私は教師しかない、と確信した。
大学時代、様々なことを経験したけれど、大学生活の最終目標は教師になることで、それ以下では決してない。
心の深淵を覗いては言ってやる。
何よ、負けたりしないんだから。あんたなんかに負けはしないんだから。
私はそれが少し強がりであることを知っている。
でもそれは同時に哀願にも似た強い願いだった。
負けたくない。
負けたくない。
教師でいたい。
これから
リハビリ施設に月1回、整形外科医が往診に来るらしい。関節の可動域を測るため、一時間半早く来るようにと言われた。
寝そべって、P.T.が足を動かすのをされるがままに、聞こえてくる角度の数値だけはハッキリ耳にこだましていた。
その数値がどれほど良いのか、どれほど悪いのか、専門家ではない私にそれはわからない。でも無機質に読み上げられる数字が数年前のそれと若干違うことだけは確かだった。
「最後に測ったのは2年前やけど、そのときから少し(数値が)下がってるわ」とP.T.
・・・・・やっぱり。。
2年前。初めてこのリハビリセンターを受診したときは、センターの院長が私の診察をしてそのとき数値は聞かされなかったけれど、その数ヶ月前、ちょうど地元の整形外科でも同じ可動域の測定をしていた。
落胆はもう慣れた。慣れてしまえばそれは「落胆」ではなく、ただの感情のひとつになる。
P.T.がバンドエイドを持って現れた。
「それ痛そうやん。貼っとき」
内反足(足が内に向くこと)の影響で薬指の爪が伸びてくると、中指の側部に食い込むのだ。今までは左足だけだったので左薬指の爪の伸び具合には常に気を配っていたが、数日前から歩行時に痛みを感じるな、と思ったら右足も同様の症状が認められた。
4月からは土曜日しかリハビリにいけなくなるし、その土曜日でさえ研修等で潰れる可能性は十分にある。毎週毎週定期的に行けるかどうかわからない。
2月いっぱいでバイトを辞めることを知ると、「3月いっぱい集中的にリハビリする?」と提案してきた。
もしかしたら集中リハビリは入院しなければいけないかもしれないと言うので、通いで来れるのであればすると告げた。
でも毎日毎日リハビリに通ったら、ひと月いったい幾ら掛かるんだろう?
貯えも、引越し業者代にする予定だし、想定以上のお金は・・・ちとキツぃな

整形外科の医師を待っている間に、来ている子どもたちと会話をしたりして時間を潰し、「6年生?」と言われる。
・・・・少年よ、●年生は中学になっても高校になっても大学になってもあるんだよ・笑 6年生が最高じゃないんだぞーーーーーーーー

そうこうしてるうちに医師が来て、診察開始。
担当のP.T.だけじゃなく、そこで勤務しているすべてのP.T.が周りをぐるっと取り囲む。なんだか「財前教授の回診でーーす」を連想する雰囲気。
担当のP.T.より近くで、男性P.T.がひとり、担当以外で唯一色々込み入ったことを聞いてくれたり、適当発言を繰り返す医師にツッコんでくれたりしていた。熱心にメモも取ってくれはる。
私も色々調べているとは言え、それでも専門的な知識は皆無に等しい。言われる説明をただ「はい、はい」と聞くしかないだけの立場は弱い。そんな中、知識のある人が積極的にいろいろ聞いたりしてくれるのは非常に心強かった。
P.T.の責任者だからなのか。それとも私が長年お世話になっているP.T.と仲がいいからなのか、どちらかは私にもわからない。
「うーーん・・・さて、どうするべ」から始まり、医師の表情は患者に希望を与えるものではないように感じられた。
打つ手はないのか。。
案の定、装具どうこうの問題では、もうないらしかった。
手術しか方法がない・・と。
まだ手術って方法がある

「この人はまだ尖足(病的なつま先立ち)が少ないから、△♂☆~♯◎・・・・(←専門的すぎてわからない

聞いている内容が途中からまったく理解できない。この人はおそらく患者にわかる言葉で説明する気がないらしい。きっと医学生たちにも「俺のレベルまでついてこい」みたいなタイプなんだろう。
すがる様にP.T.を見ると、P.T.は笑って、
「これがねー、こうなってないってこと」と実演して見せてくれた。
整形外科医からあった手術の説明はこうだ。私の場合内反転しているのがひざから下なので、すねを切りその中の骨を切って、内反した足の骨を矯正するための器具を入れる。そして一日に少しずつそれを回して行き、骨をまっすぐの状態にまでする、というもの。
すねを切るというだけでも痛そう極まりないのに、その上骨を切ってそこに金属器具を入れて、それで骨をぐりぐり回すだなんて


世の中色んな術式があるもんですね・・・。しかも整形外科なんて美容外科じゃないんだから、痕のことも考えて細かく縫合してくれたりなんか、しないんだろうなぁ・・・・。
両足のすねに手術痕が残るのを否応なく想像してしまう。。
春からの私の勤務のこととかも心配して癒し系(いつも癒されてる

「どれくらいかかるもんですか?(入院期間)」
「あんまり急いで矯正してもあれやからなぁ~」
「そうですね~」
・・・・・・・・。。←黙って聞くしかない私。
「金具入ったままやったら、3ヶ月くらいかな。骨がつくまで入院しててもええけど、復帰遅なるしなぁ。アメリカとかやったら金具入ったまま職場復帰してるし、車だって普通に運転しよるで。それに、あれや、とび職の兄ちゃんなんかふっといズボン履いたら金具入ってんのなんかわからへんがな」
金具が入ったままって、どんな状態なんだろう。
想像すらできないでいると、癒し系P.T.が、その癒し系オーラとは対照的な強い口調で、
「先生、そらね、ニッカボッカ履きゃわかりませんよ。でもこの子、女の子ですやん

と言ってくれたのだった。想定していなかった出来事に、少し驚いた。
普段、リハビリを受けに来る子どもたちには、底抜けに優しい顔をする。何があっても怒らないんじゃないだろうか、という印象さえ、見ている者に与える。
でも、これからのことを親御さんに話すときの口調や顔つきは真剣そのもので、そのギャップに驚かされる。
痛がってごねている子どもをあやすのも上手だが、ただ面倒くさがっているだけの子どもには同じようにこの真剣モードが飛んでくる。
きっと、この仕事にすごく誇りを持っているのだろう。そう思わせるオーラがある。
だから、このような話になっても金具が入ってようがボルトが入ってようが、それで機能が回復するなら多少の見た目など我慢して当然、というスタンスなのだろうと思っていた。
地元のP.T.から、私が常日頃「かわいい靴が履きたい、ヒールをコツコツ言わしたい」とグチっていることを聞いたのだろうか。
地元のP.T,にはなかなか親とも話せないことも相談している。それが全部バレてんだったら、なんか照れくさいというか、気まずいな

それを知っていたにしろ、こちらに来てからの私しか知らないにしろ、私の気持ちの側に立って反論してくれたことが、すごく嬉しかった


まして、女性のファッションに対する気持ちなどわからないかもしれない、男性のP.T.がである。
「(手術は)3ヶ月ほどなんやから、夏休みの間にやってまえ」という医師に、P.T.が私が春から社会人になることを告げる。
すると、仕事は何をするのかときいてきたので、私が「中学校の教員です」と早口で(緊張)答えると、
「へ?」と素っ頓狂なデカい声が返ってきた。どうやら年配の医師なので耳が遠いらしい。
私がもう一度大きな声で言おうとしたとき、その癒し系P.T.が代弁してくれた。
「がっこうの、せんせいになるんよ。ちゅうがっこうの

・・・・なんで知ってるんだろう

プロ根性? 職種違うけど、見習わなきゃなー。
一通り聞いた医師は、「公立学校やったらクビ切られへんから、ゆっくり休んで手術とリハビリしてまえ

ちょうどええわ。ええ職就いたなー自分!」
私は失笑し、周りにいたP.T.はみな、「先生そういう問題ちゃうでしょ」と異口同音ツッコむ・笑
そのときもその癒し系P.T.が熱心に
「そんなん働き始めてすぐ休みますーなんてめちゃくちゃですやんか。この子の立場もあるし・・・いくらなんでもある程度働いて、できるだけ仕事に支障のないときにしないと・・・」と先生の暴走を食い止めようとしてくれていた。
世話になっているP.T.の知り合いの人とは言え、担当ではないので普段は挨拶しか交わしたことがない。それなのに、自分が思っているよりずっと自分の事をわかっていて、考えてくれていることに驚くと共に感謝と嬉しさでいっぱいだった。
手術はするにしても、まだまだ先の話だろう。その間に私のほうでも色々情報を集めなければならないし、セカンドオピニオンも聞いておくべきかもしれない。
ただ、難点なのは整形外科ならどこでも話を聞いてくれるかというとそうではなく、脳性まひにも詳しい整形外科医でなければ、ほとんど何も知らないということも多い。
捻挫で町の整形外科に行っても、いちいち細かい説明をしなければ脳性まひ患者であることがわからない医者もいるのだ。
この日診てくれた医師は骨から行く方法だが、地元で世話になった整形外科医は筋肉を切る方法を推奨していて、幼い頃から手術を幾度となくすすめられた。
そのたびに言われたのが、成功すれば今より筋肉も関節も柔らかくなりますが、失敗すれば車椅子です、と言うこと。
ハイリスク・ハイリターン。
幼少期の私と両親はリターンに賭けるより、リスクをかぶらない道を選んだ。幼いながらリスクの大きさがわかったというのもあるし、単に手術が怖かったというのもある

でも、それで正解だったとその整形外科医に言われた。その地元の医師のこともよく知っているようで、その先生が手術好きというのも知っているようだった。
「あの先生は正直やねん。失敗したらというよりね、時が経てばって言う意味で。
確かに成功すれば、しばらくは関節も筋肉も柔らかい。でもそれはずっとやないねん。筋肉いじってええことは絶対ない。大きなったら歩けんようになる。手術しとったら間違いなく今頃車椅子の生活やったね」
背筋が寒くなった。もしあそこで手術してたら、今の私はなかったのかもしれないと。
「英語の先生か。俺教えてほしいわ・笑 頑張ってください」
その言葉で診察は終わった。
出来ないことが増えていく。過去の自分を知っているから、情けない。惨めになる。
でもそれでも生きなきゃいけないから、必死で自分の弱い心と闘う。前向きに考えるように、前向きに生きられるように。
でも時折発作的にやってくる不安、恐怖、絶望。自分を嫌悪する気持ち。
ふと、考える。
手術をすれば、歩き方は綺麗になるけど、大きな傷跡も残る。
筋肉の使い方が偏っているので、お風呂で自分の体を見てはため息ばかりが出る。
じぶんは、女なのになぁ・・・と思う。
筋肉ばかりが目立つ体。よく転ぶようになったので、生傷やかさぶたがこの頃よく出来る。打ち身も。
足の裏はタコだらけ。。
こんな私を愛してくれる人はいるかしら。
きれいな女の人を、男の人は好きなのだというのはステレオタイプであるとわかっていても、やっぱり考えてしまう。
内面で勝負するしかないと決めても、自分より明らかに性格のいい女の子と接するとヘコむ

私ってまだまだだなぁ。強くしなやかに生きなければ。
CALENDAR
カテゴリー
フリーエリア
最新CM
最新記事
最新TB
プロフィール
詩を創るのが趣味。でも最近は忙しくてなかなか創作できません。
夕暮れの空が大好きですww
良い空があれば撮り貯めてますが、キレイに撮れないのがなやみ;
このブログでは日常や好きな音楽、本のレビューを綴ります☆徒然なる独り言にお付き合い下さい♪